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「支援」の正解はなにか

「障害」のある方や、子どもに日々関わっている中で、その子にとって、その人にとって何が良い支援か?を考え続けてきた。様々な支援方法、教育方法も学んできた。その中で私は、その子にとって、その人にとって、その家族にとって、何が「正解」かは、一緒に模索していくことでしかわからないことを学んだ。

間違いがあるとしたら、それは「勝手に正解を決めること」。「正しさ」の定義をせずに、「こっちが正しいのですよ」と言い切った時点で、その支援者は信用してはならぬ、と私は思う。

その子の人生はその子のもの。支援者である私ができることは、その人や家族が望むことを大切にしながら、選択肢を見つけたり、「私はこっちがいいと思うけど、どうだろう?」と提案をすること。そして、一緒に決めていくこと。

それは対象者がどんなに子どもであっても、どんなに重度の障害のある方、であっても。

そんなこと当たり前だ、と思われるかもしれないけれど、多くの場合支援者はその人を置き去りにしがち。

その背景には、支援者自身の、自分の専門性や経験を「信じたい」思いが隠れている、と思う。ある専門分野を勉強してきた人は、その専門性を最大限に活用して支援をしたい、と思うもの。それは仕方のないことだと思う。けれど、果たしてそのアプローチ方法のみがその人にとってベストか?はわからない。当事者が支援をするときも、「自分の経験を最大限生かしたい」と思って支援をする。自分が経験してきたことは肯定したいもの。

そういう思いを否定したいわけではない。その思い自体が原動力になることも、そして対象者にとっての生きやすさにつながることもたくさんある。けれど、支援者はどんな支援者であっても、常に自分の提案が本当によかったのか?疑っていないと危ない。なぜかというと、その人の歩む人生に、責任はとれないから。そのためにも、自分は何をもって「正しい」と定義しているのか、そのほかにどんなアプローチ方法があるのかを知っておかなければならない。

「エビデンスがあるからこのアプローチ方法を勧める」という支援者は、何を「正解」と定義したときの「エビデンス」かによって異なるし、そして「どの条件下」のエビデンスか、によっても異なるので、そこを抑えておく必要がある。

私自身は、アプローチ方法自体の正しさも大事だと思うが、ご本人とチームで共に決めていくプロセスそのものを大切にしていきたい、と考えている。ご本人、ご家族、そして多様な専門家をあつめたチームで、その人やご家族の思いを共有していく。何を「正解」と考えるかを共有する。そして、そこに対してできそうなアプローチや支援などを「お盆にのせる」。そのうえで、どうしていくのが良いのか?一緒に決めていく。


※お盆にのせてるイメージ

半年ほど前に「オープンダイアローグ」に出会ったのだが、その中でも好きな考え方は、「本人抜きに本人のことを話さない」ということ、そして「お盆にのせる」ということ。

「支援者」や「専門家」というラベルが付くと、多くの場合「自分が正しい答えを出さなければならない」という呪いにかかってしまう。「先輩」が「完璧」に見えれば見えるほど、呪いは強くなる。

私は、自分が知っていることと知らないことを自覚し、その子にとって「より良い」を共に模索し続けられる支援者でありたい。

※写真はなんと自分が生まれた家の前の道@ロサンゼルス

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