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とてもわかるNote

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記事一覧

他人の心まで一律に「正しく」したがる全体主義者たちのこと

他人の心まで一律に「正しく」したがる全体主義者たちのこと

 というわけで、5月も終わりである。なんだかあっという間のひと月であった。

 これはリンクした過去記事に詳しく述べてあるとおりのことであって、従来から何度も語ってきた話ではあるのだけど、今月の諸エントリに通底する問題意識に関わるテーマでもあるので、新たな観点も入れながら、いちおう再説してみることにしよう。大切なことは、やはり2回でも3回でも、繰り返し書いておいて悪いことはない。

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説明することの効用について

説明することの効用について

 先日のツイキャスでは「権利」という概念の根底にある発想及び、翻訳上の問題について話すなどした。

(※録画視聴パスは、5月1日のエントリより取得できます。)

 放送直後にはそれなりにきちんと説明できたかな、と感じていたのだが、翌日の朝になってから、「そういえば、あの点はこういえばもっとわかりやすかっただろう」といったことを思いついてしまい、少し残念な気分にもなった。ただ、こういうのは毎度のよう

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無自覚な全体主義よりはいくらかマシ

無自覚な全体主義よりはいくらかマシ

 私はもともと(この記事に書いてあるような意味での)リベラルな立場を基本的にはとってきたのだが、最近はいわゆるリバタリアンの人たちがいうことも、多少はわかるようになってきた。

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すべての人が「民」でいてよいわけではない

すべての人が「民」でいてよいわけではない

『論語』の泰伯篇に見える、「民は之を由らしむ可し、之を知らしむ可からず」という有名な孔子の言葉を眺めながら、現代社会の困難さを改めて思うなどした。

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私たちはアタマの使い方を学んでいない

私たちはアタマの使い方を学んでいない

「明治時代の日本を形成し支えた優れた人物たちは、基本的に江戸期の(もしくは、その影響を色濃く残した)教育を受けた人たちである。近代の学制が整い、そこから排出された者たちがエリート層を占めるようになってからは、人材の質が下がった」といった主張は、いわゆる「保守派」の論客たちから、しばしば語られるところである。ただ、そのように主張する彼/女たちのあいだでも、「ならばその江戸期の教育の何がよかったのか」

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本にも読まれるべき「旬の時期」というものがある

本にも読まれるべき「旬の時期」というものがある

 哲学についてのエントリを長々と書いておいてからいうのもアレなのだが、このところ私は狭義の哲学というか、いわゆる形而上学の分野に属するテクストの多くについて、さほど興味をそそられないようになっている。もちろん、形而上学が問題とする領域そのものについて無関心になってしまったわけではないのだが、とりわけ西洋哲学がそれを取り扱う仕方というのが、いまの私にはあまり魅力的なものとは感じられなくなっているとい

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哲学とは虻のようにウザいものである

哲学とは虻のようにウザいものである

 前回のエントリでは、「世間一般の人々が考える哲学を、そのまま自分でもやってみる」ための実に簡単な方法について述べたわけだが、とはいえシンプルなことであればあるほど、それを愚直にずっと貫き通すためには一定の困難が伴うのも世の常である。そんなわけで、今回は前回の補論として、哲学をやり続けることの難しさと、それを少しでもましにする方法について、簡単に述べておきたいと思う。

 まず最初に、誤解してはな

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「哲学入門」のための、実に簡単な方法について

「哲学入門」のための、実に簡単な方法について

 前回のエントリの続きである。そこでも予告したとおり、今回は「日本において(世間一般の人々がイメージする)哲学をやってみたい人はどうすればよいのか」ということについて、簡単に記してみたい。「そんなに容易にできるようなことではないだろう」と思われる人もいるかもしれないが、実際のところ(少なくとも初歩のうちにやるべきことは)全く簡単なことにすぎないのである。

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「狂う狂う」と警告するのはいいけれど

「狂う狂う」と警告するのはいいけれど

 先日の Youtubeライブ放送で「非リア充なのでGWがきつい」という旨のコメントをしてくれた方がいた。もちろん、このコメントが「ガチ」なものなのか、それとも(インターネットの作法に則った)「ネタ」なのかということは不明だが、放送中にもいちおう応答した話ではあるし、一般論としていいたいこともないわけではないので、noteのほうでも少しコメントしておきたいと思う。

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「子どもの声は騒音ではない」の件について

「子どもの声は騒音ではない」の件について

 先週のエントリでも軽くふれたのだが、どうやら日本政府は「子どもの声は騒音ではない」旨を法律で定めることを、検討しつつあるらしい。

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彼/女たちは、何を「保守」して、どこに「同化」してほしいのか

彼/女たちは、何を「保守」して、どこに「同化」してほしいのか

 note更新再開も5日目になって、やっとペースがつかめてきた感がある。文章を書くということのためには、その内容ごとに独特のリズムを身体に起動させる必要があって、そのリズムを久方ぶりに想起しようとすると、やはり一定の時間はかかるのだ。

 一昨日、昨日と、つい(私自身の立場でもない)「保守」について長々と書いてしまったのだが、こういうことに私が関心をもつのも、上のツイートで紹介した記事にふれられて

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高度お気持ち社会の「次」に来るもの

高度お気持ち社会の「次」に来るもの

「高度お気持ち社会」については上掲の過去エントリにもまとめられているとおり、私は相当以前から一貫して、その危険性を指摘してきた。ただ、この「高度お気持ち社会」は現在の日本において、ほぼ完成の域に達しているといえる。ゆえに、そろそろ「この次」の話をしておくべきだろう。

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「個人的なこと」は本当に、「政治的なこと」になってしまった

「個人的なこと」は本当に、「政治的なこと」になってしまった

 知識人や言論人の「言ってることとやってることが違う」のは許されてよいか、といった話題を目にして、これは昔よく考えたことだなあと、懐かしく思い出すなどした。

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勉強の「コスパ」について

勉強の「コスパ」について

「子供に対する教育投資は、実はさほど意味があるとはいえないのではないか」といった意見を最近はしばしば見かけるようになり、そのことをきっかけとして、「勉強のコスパ」について少し考えてみるなどした。

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