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【書評】 藤木和子著『「障害」ある人の「きょうだい」としての私』(岩波書店)
著者の藤木和子さんは弁護士であり、旧優生保護法による強制不妊手術に関する裁判においても弁護団として活躍されているが、聞こえない弟を持つ「きょうだい」でもある。本書は、藤木さんが「きょうだい」としてこれまで感じ考えられたこと、「きょうだい会」で話されることとよく話されるテーマについて、そして、ヤングケアラーについてと、大きく3つの内容で構成されている。
「弟とケンカをすると、親や周囲の大人からは
「性行為中心主義」を考える
「性行為はコミュニケーションである」「性欲はどんな形であれ、誰もが持ちうるものだ」、私は、こうした言葉に触れると胸がザワザワする。
私は、生きてきて48年間、性行為というものをしたいと思ったことがない。そして、連れ合いを含む誰に対しても、性別は問わず性欲というものを持ったことがない。「性欲とは何だろう?」というのが正直なところだ。四半世紀前、アルバイト先で「一緒に風俗に行かないか?」と言われた
『相談支援の処「法」箋――福祉と法の連携でひらく10のケース』(現代書館)
弁護士の青木志帆さんの新著『相談支援の処「法」箋――福祉と法の連携でひらく10のケース』(現代書館)を読みました。帯の謳い文句には「断らない相談支援――この「無茶ぶり」に備えるために」とあり、出てくるケースも、高齢者、障害者、ギャンブル依存、ひきこもり、シングルマザー等多種多様。そして、この本の最大の特長であると思われるのが、それらが微妙に絡まったケースばかりで、より実態に迫ろうとしているところ
もっとみる『マザリング――現代の母なる場所』を読む――「母」の転轍、そしてその先へ
障害者運動は、「母」の暴力的な側面、すなわち、障害のある胎児や子どもを殺す存在としての「母」に照準を当ててきた。言うなれば「母」の健全者性、社会の写し鏡として障害のある子を「愛の名のもとに」殺すということを糾弾してきた。ではなぜ、「父」ではなく「母」だったのか。それは言うまでもなく、女性ジェンダーこそが、「愛の名のもとに」社会から無償のケアを行う主体として期待されているからだ。この社会は、「母」
もっとみる『パンデミックの倫理学』を読む――「倫理を問う」とはどういうことか
「医療の世界にも倫理(学)が必要だ」とよく言われる。それはその通りであると私も思う。しかしこうしたことは、私の思いとはかけ離れた意味をもって言われる。それは、このような場面である。
「患者が死にかけている。しかし、医療資源が足りない(医療にかかる人が少ない、患者が死ぬに任せてくれと言っている、などに置き換えも可能)。医療者は、患者を助けるべきか」。
そして、そのような場面において、倫理(学
障害を倫理学的に考える――障害者としての経験を踏まえながら、社会の原理原則を捉え直す
私の研究は、どんなに重度の障害があっても、その人の存在が無条件に肯定される社会の原理を追求しています。つまり、どんな能力や属性を持った人であっても、その人の存在を無条件に肯定できる社会とはどのような社会なのか、ということを検証することを目指しています。それは、目の前にいる人を「ありのままの自分」として認めるということではありません。どんな人でも無条件に生きることが許される社会が正しい種類の社会で
もっとみる大西つねき「命、選別しないと駄目だと思いますよ」(2020/07/03)を批判する
大西つねき氏の「命、選別しないと駄目だと思いますよ」を読みました。
何か目新しいことを言っているのかとドキドキしながら読みましたが、まぁ何のことはない、昔からよくあるパターンの高齢者叩きでした。
若者と高齢者との間で命の価値序列をつけているという点で、「譲」カードなどとも符合するものであると言えるでしょう。
高齢者は死ぬ確率は高い
これは何の話をしているのでしょうか。おそらく、高齢者は若者に比
「生の無条件の肯定」と Black Lives Matter
私は、『生を肯定する倫理へ――障害学の視点から』(白澤社、2011年)において、次のように書きました。
「正義というものが存在するのであれば、それはどのような生が生きることをも無条件に肯定しなければならない。生の無条件の肯定が、倫理的命令である」(p.193)。
このように、私は「生の無条件の肯定」すなわち「どのような生が生きることをも無条件に肯定しなければならない」ということこそが正義の