生存権の射程

「2013年8月以降の生活保護費引き下げは生存権を保障する憲法25条と生活保護法8条に違反するとして、愛知県内の生活保護受給者が自治体と国に引き下げの取り消しなどを求めた訴訟の判決が6月25日、名古屋地裁で言い渡された」。

この判決は、まさに「生存権」を争うものであろう。なぜなら、生活保護費は「健康で文化的な最低限度の生活」水準を維持するものである、と考えられるからだ(実際問題として、生活保護の水準で生存を守ることすらままならないのではあるが)。

さて、そこで、である。

「角谷裁判長は生活保護費の引き下げは「国民感情や国の財政事情を踏まえたもの」であるとし、原告の主張は採用することができないとしている」。

生活保護費の引き下げは、直に生存権を脅かす。つまり、この裁判長は、生存権は国民感情(私は、「国民」という言葉が好きではないが)や国の財政事情に左右されてもかまわないと言っているに等しいのだ。何かしらの事情があれば、人の生存権を奪っても致し方がない場合がある、そんなふうに言っているのだ。

生存権は、生まれたときに誰もが持つものであり、何人たりともそれを奪うことは許されないはずである。憲法11条によれば、基本的人権としての生存権は、侵すことのできない永久の権利でもある。

生存権を国民感情によって奪ってよい、とする議論は、死刑肯定派にも見られる。私は死刑反対派だが、その大きな理由の一つとして、感情によって人の権利義務が規定されてはならないということが挙げられる。「あいつのことが嫌いだから死んでよし」を絶対に許してはならない、それが生存権の思想であるはずだ。私のことが全員嫌いであっても、私を殺すな、それが生存権であるはずだ。

また、財政事情に関してであるが、財政がひっ迫していること自体は、問題である。しかし、財政がひっ迫しているからと言って、それは誰かの生存を保障しなくてもよい、とはならない、それが生存権の思想である。財政事情の問題は、たんに財政の問題なのであって、財政不足を理由に生存が保障されない、などということがあってはならない

「生活保護基準は国民感情や国の財政事情を踏まえるとは法律のどこにも書かれていません。自民党政策や国民感情、財政事情を踏まえた上での判断とされたのは生活保護裁判上初めてだと思います」と、尾藤廣喜弁護士は正しく指摘している。

これは裏には、自民党がたくらむ改憲論議があるとみてよいだろう。私は、憲法11条の改変をもっとも懸念している。つまり、天賦人権説の否定である。自民党の改憲草案では、「(基本的人権は…)現在及び将来の国民に与へられる」。という部分を削除しているのである。人が人として生まれただけで持つと考えられる基本的人権の部分を、自民党改憲草案では落としているのである。基本的人権の一つである生存権を、人であるだけで無条件には認めないとする自民党の考えがよく表れていると思う。

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