これって私の「特権」ですか?

 2024年5月16日、東京大学で反イスラエル、パレスチナ解放を求める学生たちによるデモが行われました。参加した学生の一人は、次のように述べています。

日本で安全に教育を受けている学生として、その特権を何かに使わなければならないと思っていますし、ガザのために何かできることがあればしなきゃと思っています。それで来ました。

パレスチナの解放訴え 東大生ら500人が反イスラエルデモ

 言おうとしていることはよくわかるのですが、「安全に教育を受け」ることは果たして「特権」でしょうか? それは、当たり前のことではないでしょうか? 「特権」と言って、自らの立場性を自覚することは大切であると思いますが、それを「特権」と言ってしまっては、安全に教育を受け、かつ生活を送っていけることが当たり前の権利だということが、見失われがちにもなるかと思っています。

 良心的なマジョリティは、良心的であればあるほど、自らの立ち位置に対して、「特権」であると言ってしまいがちです。なるほど、マジョリティをマジョリティたらしめるもの、それは「特権」であると言うこともできるかもしれません。マジョリティが物理的・身体的・精神的・歴史的・社会的に得てきたものは、マイノリティと比べて「特別なもの」ではあるでしょう。そのことを反省的に捉えなおすことに、意味がないということはないとも思うのです。

 しかしながら、マジョリティがマジョリティゆえに保障されていることこそが、マイノリティが奪われてきたものでもあるわけです。そのように考えたとき、「特権」一辺倒の議論によってだけでは、見えなくさせられているものがある、ということなのです。マジョリティが反省的に使う「特権」の多くは、単に「権利」に過ぎないのです。その権利が、ある人たちにだけ保障され、別のある人たちは奪われている、そここそが問題の核心であるはずです。だから、大切なことは、「特権」を捨て去ることにあるのではなく、むしろ奪われた、あるいはそもそもない状態を生きてきた「権利」を奪い返す、あるいは付与することにこそあるのだと、私は思うのです。

 マジョリティの「特権」を反省的に見ていくこと、それは大切なことであると思います。そのような議論が高まってきた現在であるからこそ、あえて「その先」を見据えた議論も必要なのではないでしょうか。


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