「生の無条件の肯定」と Black Lives Matter

 私は、『生を肯定する倫理へ――障害学の視点から』(白澤社、2011年)において、次のように書きました。

「正義というものが存在するのであれば、それはどのような生が生きることをも無条件に肯定しなければならない。生の無条件の肯定が、倫理的命令である」(p.193)。

 このように、私は「生の無条件の肯定」すなわち「どのような生が生きることをも無条件に肯定しなければならない」ということこそが正義の命ずるところだと主張しています。
 それでは、このような立場からは、黒人であるジョージ・フロイドさんの警察による殺害に端を発する「Black Lives Matter」(以下「BLM」と略す)運動は、どう映るでしょうか。また、どう解釈すべきでしょうか。

■「黒人の命」も大切、に決まっている

 黒人が(生物学的に)人間であり、生きている人間は生きている以上、当たり前ですが、「どのような生が生きることをも無条件に肯定しなければならない」という「どのような生」のなかに黒人の生も入っていることは、言うまでもありません。
 さらに言えば、ここには明示されていませんが、黒人も、黒人以外の生も、等しく生を肯定されなければなりません。誰かの生が別の誰かの生よりもより尊重(より棄損)されてはなりません。「生を享けた」という点に関しては、そしてその限りにおいては、どのような生も同じであるからです。
 基本的には、これで終わり、なはずです。
 しかし、私たちの住むこの社会においては、黒人の命は、「黒人であること」「黒人として生きているということ」によって棄損されています。どのような生が生きることをも無条件には肯定されてはいない社会に私たちは住んでいると言えます。あるいは、黒人のように、ある種の生は人間としてみなされていない、と言ってよいでしょう。
 BLM の運動や主張は、そのことを改めて私たちに突きつけている、とは言えないでしょうか。

■「すべての命が大事」という文言が不適切に使われてきた歴史

 ところで、私が思うような「すべての命が大事」という文言は、現実には私が思うこととは正反対にも使われてきました。
 黒人差別に反対する文脈で「すべての命が大事」と言ったときに、それは「白人の命のことも考えろ」という意味になるでしょう。
 女性差別に反対する文脈で「すべての命が大事」と言ったときに、それは「男性の命のことも考えろ」という意味になるでしょう。
 つまり、マイノリティ差別に反対する文脈において、「すべての命が大事」と言ったときに、それは「マジョリティの命のことも考えろ」ということを意味してしまうのです。
 実際問題、関東大震災における犠牲者追悼に関して、小池百合子東京都知事は「すべての犠牲者を追悼している」という理由で、震災時に朝鮮人が虐殺された事実について一貫して触れていません。
 このように、「すべての命が大事」という文言が、現実の差別や抑圧で「命の軽重」が存在してしまうときに、その事実を追認してしまうことがあります。
 今回の BLM の運動や主張においても、それに対して「All Lives Matter」という主張もなされました。
 「すべての生を尊重する」という文言の中に、「個別のマイノリティの生だけを特段に尊重するな」という意味が包含されている、そのように理解されてしまうのです。
 カトリックの「すべての生への慈しみ」が、中絶を禁止させ、胎児の権利と女性の権利とを対立させ、胎児の権利をより尊重する、というのもその一例かもしれません。

■それでも「すべての命が大事」だ!

 そういうことを踏まえたうえで、私はなお「すべての命が大事である」と主張したいと思います。
 「個別のマイノリティの命が大事だ」という文言を「マジョリティのことも考えろ」と理解することが、そもそも間違っています。マジョリティの命は、すでに配慮されているのです。たとえば、在日コリアンの権利を求める運動が「在日特権」だと揶揄されたりもしますが、これは「日本社会において、在日コリアンが捨て置かれているからこそ取られる運動」なのです。つまり、日本社会において、在日コリアンの命が低く扱われるからこそ、日本人と同等な権利を求めるのです。「すべての命」は、現実には大事にされていない。だからこそ、「すべての命が大事」だと言われる必要があるのです。
 私は、次のように書きました。

「「障害者の視点」から論じられる「正義」とは、「障害者」という枠を超え、すべての〈生きづらさ〉を抱える者たちに向けられるべきものである」(p.212)。

 「すべての命が大事」と言うとき、突き詰めて考えていけば、現実に大切にされている命と、そうではない命との境界についての思考にぶち当たります。逆に言えば、捨て置かれている命の側から、命の大切さについて考えた場合、「すべての命が大事」と言うときには、必然的に現実の命の扱われ方も含まれざるを得ない、そのように私は考えます。
 その意味において、私自身は「すべての命が大事」という文言を使っていきたいと思うのです。

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