【書評】 藤木和子著『「障害」ある人の「きょうだい」としての私』(岩波書店)

 著者の藤木和子さんは弁護士であり、旧優生保護法による強制不妊手術に関する裁判においても弁護団として活躍されているが、聞こえない弟を持つ「きょうだい」でもある。本書は、藤木さんが「きょうだい」としてこれまで感じ考えられたこと、「きょうだい会」で話されることとよく話されるテーマについて、そして、ヤングケアラーについてと、大きく3つの内容で構成されている。
 「弟とケンカをすると、親や周囲の大人からは「お姉ちゃんなのに」、「弟は聞こえないのだから」とよく言われていました。そう言われた私は、「お姉ちゃんって損! 自分で選んだわけじゃないのに(弟もそう思っていたかもしれませんが……)」、「遊びやケンカに聞こえる/聞こえないは関係ないのに!」と不満でした」(p.8)というように、藤木さんは小さいころから「きょうだい同士は対等」でいたかったようだ。そして、「「助けてあげる/助けてもらう」ではなく、「助け合いたい」」(p.9)とも思っていたようだ。「周囲の大人から、「弟の耳が聞こえない分、お姉ちゃんが頑張ってね」と言われるのが嫌でした。しかし、自分が頑張ることで弟の「障害」を埋められる、「私は弟と二人で一組のセット」なのだ、という思いはありました」(p.10)とあるように、常に「障害」のある「きょうだい」が中心で、「障害」のない「きょうだい」は「○○さん、○○くんのきょうだい」として見られてしまうのである。のちに、このことを藤木さんは、「きょうだいの私にも「人間としての尊厳」や「人権」があ」り、「これまでそれが傷付けられてきた」(p.18)ことだと気づいたという。
 2011年10月、横浜で開かれた「きょうだい会」の全国交流会に藤木さんは初めて参加するが、「はじめて会うのに不思議なくらい話が通じた!」「もっと早く参加したかった!」(p.33)という感想をもったという。「大きな収穫だったのは、私の進路や恋愛等の悩みは「特別な悩み」ではなく、「きょうだいにはよくある悩み」だと知れたことです」(p.34)。障害者の「きょうだい」の進路の悩みとは、福祉系に進むのか、進まないのか、どちらにしてもそれを自身の関心からだと言えるのか、言えないのかという悩みである。恋愛の悩みとは、恋人やその家族に、きょうだいの障害のことをどう伝えるか、という悩みである。「きょうだい会」でよく話される内容というのは、以上の進路や恋愛・結婚の話に加え、「親亡き後」の問題であり、これらの「きょうだい」の悩みは、なかなか人には言えずタブー視されるという。「それは、一見、「きょうだいvs障害のある人」「きょうだいvs親」という対立関係に見えてしまうからだと私は考えています」「しかし、きょうだいが我慢して、犠牲になるのもおかしいです」(p.52)。「このような課題が、「きょうだいの問題」「家族の問題」ではなく、「社会の課題」として認識され、少しずつ解決されていくことを願います」(p.53)。私も、まったく同じように考えているし、こうした課題の解決もまた、障害当事者にとってもよい方向へと向かうに違いない。
 「きょうだい」は偶然生まれる。また、「(障害のある子や人について)親はその半生しか接することがないが、きょうだいはほぼ一生接する」という言葉もある。「きょうだい」が小さいうちから、身体的にも精神的にも未熟なころから障害のある家族成員のケアを引き受けることは、決して望ましいことではない。ヤングケアラーの問題が焦点化してきている現在、「きょうだい」についてより知っていくことは不可欠だ。(定価620円+税)

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