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ルックバック スティグマを破壊するために、時空を超えて、一枚の紙片が宙 を舞う

一枚の紙片が宙を舞う。

手から零れ落ちる一枚の紙片。偶然なのか必然なのか、それはドアの下の隙間に滑り込むように部屋の中に入って行く。その一枚の紙片がドアを開ける。その紙片が部屋の中に閉じ籠る者を外へと導く。そして、その外へ導かれた者がその紙片を送った者を創造の世界へ導くことになる。一度は断念した創造の世界へ。その部屋の中に閉じ籠り部屋の中にしかいなかった者こそが、その者こそが、紙片を送った者の創造の唯一の真の本当の理解者であったということ。一枚の紙片が二人を決定的な出会いへ導くことになる。

ルックバック5000

藤本タツキ「ルックバック」 少年ジャンプ+ (無料公開部分より引用)

ドアを開く。宙を舞う一枚の紙片が。

閉ざされたドアの下のほんの僅かな隙間を擦り抜ける一枚の紙片が、二人を閉じ込めようとした二つのドアを開くことになる。宙を舞い擦り抜ける一枚の紙片が、ドアを開く。一枚の紙片が、二人の世界を開き、二人の運命を開く。二人の困難と苦闘と快進撃が始まる。そして、訪れる二人自身の決断による離別の時。開かれた世界の中の二人はそれぞれの道を歩むことになる。彼女らは、自らの手で新しいドアを開け、自らの手で新しい世界を切り開く為に。

惨劇。

何処からか現れたその者によって惨劇が生まれる。理不尽で冷酷な惨劇。永遠に二人は切り離される。幾つかの時間と空間が積み重ねられ、その者が生まれ、惨劇の時空が形成される。その惨劇の時空の一部として、その惨劇に居合わせることになる二人の中のひとり。残されたひとりは、その惨劇の時空の形成に自らも加担してしまったのではないかという悔恨に苛まれることになる。自らのあの時のあの行為さえなければ、彼女は惨劇に遭遇することはなかったのではと。その惨劇の時空を形成したのは自分ではないかと。

その時、一枚の紙片が宙を舞う。時空を超えて。

惨劇の時空が変容する。宙を舞う一枚の紙片によって。惨劇が回避されるもうひとつの時空が生まれる。風が吹く。カーテンが帆のように大きく揺れ、一枚の紙片が手から零れ落ちる。再び、それはドアの下の隙間に滑り込むように部屋の中に入って行く。再び、時空を超えて。

宙を舞う、一枚の紙片が。あの時、ドアを開けた紙片のように。

ドアが開かれる。時空を超えて舞い降りた紙片がドアを開ける。その時空を超えた一枚の紙片が二人をつなぐ。もうひとつの時空の中で追憶の時間が流れ、その黄金の時間の流れの中で、残された者の瞳から涙がとめどもなく溢れ出る。ぬぐいさることのできないやむことのない溢れ出る涙。

ルックバック。

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立ち上がり、ドアを開け、外へ歩き出し、一枚の紙片を外の見える窓ガラスに貼り付ける。後ろ姿を見せながら。体裁よく恰好をつけているのではない。前を向くことしか選べない者は、そうする他にないからだ。前を向くしかない者が見せるものは、後ろ姿しかない。それしかない。それだけしかない。背中しか見せるものはない。背中しか見るものはない。

ルックバック(Look Back)。

追伸、あるいは、「ルックバック」に対する二つの批判について

「ルックバック」は、漫画という想像力が普遍性を獲得して魂を揺り動かす。紛れもない傑作。と私は思う。

しかし、「ルックバック」に否定的な人もいるだろう。二つの点でその評価を批判、あるいは、留保している人もいるのかもしれない。一つはこの漫画の主題(あるいは、メッセージ)について、もう一つは、この漫画の中の或る場面の描写について。少しだけ簡潔にそのことについて、私の思いと考えを書いておきたいと思う。この事に一切触れることなく、「ルックバック」について語ることは、行ってはいけない、避けてはいけないことのように思うので。

第一の批判:「ルックバック」の主題(メッセージ)について

「ルックバック」は、作者、藤本タツキによって作られた勝者の勝者による勝者のための凱旋パレード的な勝利宣言漫画でしかないという批判

この漫画は、創造者として勝利しさらに漫画家として成功した作者、藤本タツキによって作られた自作自演の凱旋パレード的な勝利宣言漫画でしかないという批判。これは、成功した創造者による自伝的な経験を核にした、勝者の勝者による自画自賛の自己陶酔的なフィクションでしかないという批判。表面的には感動的な青春物語風ではあるけれども、「自分は勝ち上がった者だぞ!」という勝利宣言という批判。

確かに、そうした側面がないわけではない。そうした批判を全面的に否定するつもりは私にはない。創造の成り立ち及び創造者とその理解のあり方の一面的で画一的な捉え方、主人公たちの創造の勝利の道のりの平坦さ、創造における勝者と社会的勝者の同一化(差異化)と混濁、等々。この漫画には多くの欠点が存在し、その欠点を挙げるのは容易なことだ。ここには、確かに、成功した創造者の叫びが刻まれている。勝ち残った者の声が響き渡っている。その勝利の美酒に酔う様も見て取ることもできる。しかし、幾つかの事柄を明確にしておかなければならない。その叫びと陶酔がどのようにしてもたらされたものなのかを見定めなければならない。批判はその後からでも遅くはない。

漫画の主人公の藤野歩が取り戻すことが出来ない喪失を、引き受けているということに留意しなければならない。それは代償と呼ぶべきものなのかもしれない。彼女は無傷でその勝利を手に入れたのではない。「ルックバック」の中で藤野と京本は一体となって勝利した。しかし、作者の藤本タツキは話をそれで終わらせることはしなかった。(いや、)終わらせることができなかった。

フィクションとして漫画として、劇的な形が欲しくてそうしたのではない。その惨劇をフィクションの物語の構成上の道具(ツール)として捉えるのか、それとも、創造の内部に存在する必然として、捉えるのかによって、漫画「ルックバック」の意味(メッセージ)が全く異なったものとなってしまう。

惨劇は、その勝利の中に予め内在していたものなのだ。惨劇は創造の勝利の中に始めから存在していたものだったのだ。作者の藤本タツキの手腕をもってすれば、その惨劇を回避しつつ、感動的な青春物語フィクションを物語ることなど容易いことだろう。だが、しかし、作者の藤本タツキはそうしなかったし、それはできなかった。避けることのできない創造の持つその非人間的なる厳粛性。その痛みを引き受けるために、「ルックバック」と藤本タツキは自身を鼓舞するしか方法はなかった、と私は思う。「ルックバック」という言葉は、他の誰のためのものでもなく、作者の藤本タツキが自分自身へ向けたものだ、と私は思っている。

これは、「勝者の勝者による勝者のための凱旋パレード的な勝利宣言漫画」ではなく、「藤本タツキの藤本タツキによる藤本タツキのための創造への宣戦布告漫画」である、と私は思う。そして、その戦いに続く者たちへの讃歌でもある、と私は思う。戦いは終わってはいない。

ルックバック。

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第二の批判:「ルックバック」の中の「通り魔」の描写のスティグマ性について

「ルックバック」の中の「通り魔」の描写が、スティグマ的(ネガティブなステレオタイプ)であるという批判。

漫画「ルックバック」の中の狂気の描写には、狂気に対する偏見が存在している、その描写は狂気の本質を誤って読み手に伝え、その偏見を強化するものとして社会に作用している、という批判。狂気に対する誤解と偏見を助長するものとして、この漫画の或る場面が機能しているという批判。

その批判の内容を示したものとして、下記に斎藤環(精神科医)さんのnoteの記事をリンクすることにする。但し、斎藤さんの記事は斎藤さんの考えが書かれたものであって、こうした批判全体を集約したものでも、代表したものでもない、ということを予め明記しておく。

斎藤さんの記事の一部を引用したいと思う。(記事の終盤近くの記載です。)

もちろん、本作を読んだだけで偏見が強化されるとまでは思わない。スティグマとは、常に集合的に形成される「ネガティブなステレオタイプ」のことなのだから。だからこそ、本作のような傑作がそれを強化するピースの一つになることは、なんとしても避けてほしいのだ。そのためには「そこに偏見がある」という強い主張がどうしても必要だった。

結果として、漫画「ルックバック」の中で描写される「通り魔」の言葉が変更されることになった。そのことによって「通り魔」の内実が変更されることになり、それが作品の様相の変更にもつながり、さらに賛否の議論が生まれることになった。

画像 ルックバック 修正のお知らせ

この話には複数の事柄が複雑に絡み合っている。この場でその全部を一度に解き明かすことは、私には到底できることではない。今回は、フィクションの中の「スティグマ的(ネガティブなステレオタイプ)」描写についてだけ、私の思いと考えを書くことにする。

少し話が長くなるので、三つの章に分けて書くことにする。さらに、第二章は三つの項目に分かれている。

尚、この記事の終わりに、映画というフィクションの中の現実性とファンタジー性(幻想性)について考察した私のnoteの記事をリンクし添付する。記事のタイトルは「決定的に誤った映画「竜とそばかすの姫」、映画は現実を救済することが出来るのか? 映画という想像力の崩壊」。映画を漫画と置き換えて読むことが可能な話でもある。そして、「スティグマ的(ネガティブなステレオタイプ)」という現実をフィクション(映画、あるいは、漫画)が変更することが出来るのか?という問いに対する、私なりの解答でもある。

第一章 「スティグマ的(ネガティブなステレオタイプ)」とは何か?

「スティグマ的(ネガティブなステレオタイプ)」は、人がその物事の本質を隠蔽するための方便だ。その本質が暴露されないように、知られることがないように、それに単純明快なレッテルを貼り付け、矮小化し封じ込めるために、その「スティグマ的(ネガティブなステレオタイプ)」は行われている。そうしなければ、今存在している世界という現実が壊れてしまうことを怖れているからだ。

誰が怖れているのか? わたしたちだ。わたしたちという現実だ。今のわたしたちが壊れてしまうのを怖れているのだ。本当のこと(本質)など、誰にも知られたくないのだ。本当のこと(本質)が明らかになってしまうと、欺瞞と見せ掛けだらけのこの世界が崩壊してしまうからだ。「スティグマ的(ネガティブなステレオタイプ)」は、今のまま変わることなくそのままでいたいという、わたしたちという現実の形振り構わない防衛的行為である。

第二章 現実とフィクションの間を行き交う「スティグマ的(ネガティブなステレオタイプ)」

(1)フィクションの中の現実性とファンタジー性

フィクションは現実を利用し、現実もまた、フィクションを利用する。フィクションという作者が生み出す造り物は、現実性とファンタジー性を材料としている。現実性とは、わたしたちが生きている今現在のこの場所の在り様のことであり、ファンタジー性とはそうした現実性から逸脱した、現実性の中では汲み取ることができない全てのことだ。

フィクションは、ファンタジー性を核として組み立てられている。現実の中の現実性では描き出すことができない世界、その現実性の枠組みの中では生じることがない事柄を描き出し、人々に提出する。あるいは、架空の枠組みの中でしか存在することができない、人間の思いと気持ちを形にして保存するために、人はファンタジーを作り出す。

しかし、フィクションはファンタジー性だけで構成できるわけではない。フィクションの中には、どのような形であれ必ずそこには現実性が必要とされている。人は、そのフィクションの中の現実性を足掛かりにして、そのフィクションの中に入り込み、その中に存在する何かと出会うことになる。現実性が全く存在しないフィクションは、ホワイト・アウトの砂嵐の中のようなものであり、人はその中に入り込むことができない。現実性はフィクションの中に人を入れ込むために不可欠なものなのだ。

フィクションの中で現実性とファンタジー性が、互いに補完し合い融合してその世界が形成される。フィクションが造り物でありながら、人のこころを揺り動かすことができるのは、そこに現実性とファンタジー性の双方が存在しているからである。フィクションは100パーセントのファンタジーではない。

こうして巧妙に組み立てられた優れたフィクションによって、現実が彩り豊かなものとして出現する。現実に色彩を与えるものとして、フィクションは不可欠だ。人間は現実を生きるためにフィクションを必要とし、フィクションもまた、その成り立ちの根本として現実を必要としている。

(2)現実とフィクションは、同じひとつの巨大な現実の見せる異なった相貌にしかすぎない。

フィクションと現実は対立してはいない。現実がフィクションを求め、フィクションが現実を求めている。フィクションと現実は、表面的に見せ掛けとして互いに対立を装いながら、互いに手を結び、互いを補完し合い、互いに生き延びようとしている。なぜなら、フィクションとは個別の中の現実であり、現実とは共有の中のフィクションなのだから。それらは形を変えた巨大な現実そのものなのだ。現実とフィクションは、同じひとつの巨大な現実の見せる異なった相貌にしかすぎない。

(3)現実とフィクションの間を行き交う「スティグマ的(ネガティブなステレオタイプ)」

その現実とフィクションの間を「スティグマ的(ネガティブなステレオタイプ)」が行き交うことになる。現実とフィクションの両方が壊れないように、それを守るために、その間を激しく徘徊する。「スティグマ的(ネガティブなステレオタイプ)」が、同じひとつの巨大な現実を相互浸透的に行き来し現れるのは論理的な必然と言える。

第三章 「スティグマ的(ネガティブなステレオタイプ)」と戦うために

フィクションの中の「スティグマ的(ネガティブなステレオタイプ)」にまつわる話が、何処か腑に落ちない何かが欠けているような気配の漂うものなのか、その理由がここにある。(「ルックバック」の修正を知らせる文章の空疎さ、それを読んだ後の読み手の中に残る虚しさ)フィクションの中の「スティグマ的(ネガティブなステレオタイプ)」がそのまま放置されることを決して許容している訳ではない。わたしたちは断固とした明確な意志を持って、フィクションの中の、そして、現実の中の「スティグマ的(ネガティブなステレオタイプ)」を駆逐しなければならない。しかし、それでも、何故、フィクションの中の「スティグマ的(ネガティブなステレオタイプ)」に対して、人々はこれほど攻撃的なのか? それは強力なフィクションの持つ伝染力への恐怖なのか? そして、その結末に漂う空虚感。これは、何だろうか?

ここにもフィクションと現実の双方の顔を持つ巨大な現実が張り巡らした、複雑で巧妙な罠が潜んでいる。フィクションの中の「スティグマ的(ネガティブなステレオタイプ)」は、まるで、生贄のように人々に捧げられ壊滅される。フィクションの中の「スティグマ的(ネガティブなステレオタイプ)」を攻撃し潰すことによって、人々の戦意を満足させ、そうした意図が無いのにもかかわらず、真逆に、「スティグマ的(ネガティブなステレオタイプ)」は現実の中で狡猾に生き延びることになる。フィクションの中のスティグマ性の破壊の祝祭によって、また、フィクションの中のスティグマ性を棄てることによって、現実そのものから、結果的に、スティグマ性が守られてしまうことになる。

フィクションの中から、あるいは、現実の中から、「スティグマ的(ネガティブなステレオタイプ)」を根絶しても、それが消え去ることはない。それは、再び、形を変え、姿を変えて、わたしたちの前に必ず現れる。わたしたちが現実の中に生きている限り、それは必ず現れる。それが現実の生存本能なのだから。

では、「スティグマ的(ネガティブなステレオタイプ)」と戦うために、わたしたちは何をどのように行うべきなのか?

「スティグマ的(ネガティブなステレオタイプ)」とは世界の本質、つまり、世界の根源的なるものから人間を引き離すことでしかない。そうであるのならば、わたしたちが行うべきことは、ただひとつのことしかない。

わたしたちは根源的なるものを掴み取ることでしか、その「スティグマ的」と戦うことはできない。わたしたちに求められている必要なものは、根源的なるものである普遍性しかない。それが、フィクションと現実という二つの顔を持つわたしたちの現実そのものと戦う、わたしたちに残された唯一の方法である。

そして、わたしたちは、フィクションをスティグマ性を守るための道具にしてはならない。わたしたちは現実そのものからフィクションを奪回しその力を解放し、フィクションを根源的なるものを見つけ出す術にしなければならない。

フィクションは決して無力ではない。フィクションこそが、わたしたちが根源的なるものへ辿り着く技芸(テクノロジー)なのだ。


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