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ポエトリーリーディング カルト誕生

新興宗教の教義doctrineを書く副業

喜びではなく苦しみとしての思考。

ただ一人の神を持っていないという辛さ、天国を疑い続けている罪、神を一人二人と数える愚かな文化。

(もちろん、天国が鮮明に想像できるからこその、地獄を抱えている人間にも私は寄り添いたいし、その苦しみは無と有に板挟みになった私のこれとも、リンクするものであろう)

宇宙人は思考しない、思考とは人間にのみ与えられた最上の苦痛であるから。

生物・思考という枠組みは人間基準の世界の把握方法である。当たり前だが、脱人間的相対的に宇宙を見れば、生物かどうかも思考しているかどうかの基準も存在しない。ある惑星の大気の循環も生命活動であるし、他の惑星系の公転も1つの思考である。

私の無い脳で考えても、地球な侵略しに来る宇宙生物としてもっとも考えうるのは、植物的な種子状のものだろう。隕石のなかの種子、あるいはヒマワリの種のように宇宙空間を漂う種が、もっともあり得る宇宙人の形態である。

つまり、宇宙人(宇宙生物)と聞いて高度な“知能と文明”(そもそも文明や知能自体意味の無い概念)を持ち、我々のように宇宙船を開発して惑星外に飛び出すものたち、を想像してしまうことが人間の認知の欠陥であり、実際にほとんど起き得ないことなのだ。まあ、百歩譲ってそうだとしても、人間的な宇宙人がもし地球にやってくるなら、侵略や友好条約締結、科学の交流、SOS、などではなく布教のためだろう。「科学」というものの捉え方が違う存在に出会った時、科学は宗教でしかないのかも。

むしろ、思考という電気回路は、私たちの「社会」という生存形態と複雑に相互作用、相互誤作動をして、結果的に、遺伝子を残すことを放棄する個体を産みはじめている。もちろん、他の生物にも交配する対象を見つけられないものもあるだろうが、どちらにせよ効率的に種を拡散させるには植物的なスタイルの方が考えやすいのではないか、ということである。※もちろん現状の人間の科学では、惑星の大気圏突破のためには植物的な構造と植物的なエネルギーのみでは不可能、と結論付けられてしまうのだろうが。

これらは水分の循環系のみが生命か?ケイ素生物は、とかいう話ではなく、

遺伝子は生命に必須か?

宇宙とは生命か? 

を考えることにつながってくる。

循環ではなく停滞、拡散ではなく収縮、複雑化ではなく単一化、を志向する存在を生命とよんでもいいのではないか。

もし、宇宙も人類もいつかなくなるのなら、その前に思索によって人間が収縮点(ビッグバンの逆の状態、あるいはn回目のビッグバン)を生み出せば、愚かな存在でしかなかった我々がはじめて宇宙と対等に対峙することができる。太陽系外への植民と同時に、あるいはそれより迅速に行うべきことだ。

ここで、

ブッダ・荘子・ヘラクレイトス、Axis ageの三人の超人と思考が繋りはしないだろうか。
 
解脱/無為自然/流転
 
こそ崇高さにたどり着きかけた思索ではなかろうか。

かれらは、あるいは彼らの思考を創作した誰かは、以上の断片に、あるいは以上でのべたことの数歩先にたどり着いていたのではあるまいか。

私たちは、

無から生まれた有であると錯覚させられている苦しみ。無でしかないのに有としていつか全て失い無に帰すと、遺伝子に脅されている状態。

それと同時に、罰としての有の期間から、本源としての無へと向かう幸福な過程。

ここで頭を柔らかく、眠って起きる度に/旅に無から仮想の有へ戻ってくる反復運動という解釈も、とっておくべきかもしれない。

もう少し次元を下げて言えば、どうせ無になる錯覚の有である我々は、生まれながらにして「無敵の人」である、いつ殺されてもおかしくないので、この体でもう少し楽しみたいならまずは護身術と危機管理。

さらにわかりやすく言えば、無だからこそ、意味をみいだす。人間的に考えれば、無の世界に有で穴を空けて、靴下をひっくり返すように、そこから世界を逆転することだってできる。

人間は束だ、束の間の。無から生まれた植物、動物、水、を食べ 排出する、人からでた情報を摂取し脳で処理し、他人や自分以外の存在に情報を何らかの形で受け渡す、これは全て線状の現象に見えてくるのだ。

はじめようディスカス


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー※余談
近いこと説明してる人がいた。

ただ、人間にとって認識/解釈可能な生物という枠組みでしかない、ということに気づいているのは我1人だけのようだ。強者は孤独である。

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