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福田恆存を読む

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『福田恆存全集』全八巻(文藝春秋社)を熟読して、私注を記録していきます。
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2023年5月の記事一覧

『一匹と九十九匹と —ひとつの反時代的考察』ペシミスティック・オプティミズムという生き方

『一匹と九十九匹と —ひとつの反時代的考察』ペシミスティック・オプティミズムという生き方

この論文は昭和二十二年に発表された。

①まずは何よりも混乱に気づくこと

冒頭の引用から始める。

冒頭の一段落のなかに、「混乱」の語が九度も現れる。それだけ、当時の福田が混乱を身に染みて感じていたことが伝わってくる。福田は、混乱に慣れ過ぎて混乱のなかにいることを忘れている人々に対して語りかける。まずは混乱に気づくことから始めようと。

だれもかれもがおのれの立場を固執して譲らない。しかしそれは

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『現代人の救ひといふこと』物質苦と精神的苦悩の峻別

『現代人の救ひといふこと』物質苦と精神的苦悩の峻別

 冒頭の引用から始める。

「現代人の救ひ」という課題を前にして福田は立ち止まる。なぜなら「現代人」という言葉と「救ひ」という言葉と、両方に疑念が沸くからである。

まずそもそも現代人とは何を指すか。我々は現代人とは言っても現在人とは言わない。この言葉の選択はどこから来るのか。

福田曰く、我々が現在ではなく現代と言うとき、そこには今日の性格に対する歴史的意味づけが行われていなければならない。

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『世代の対立』人間のほんたうのすがた

『世代の対立』人間のほんたうのすがた

 この論文は昭和二十二年に発表された。

福田は、自らの属する「三十代」と「四十代」及び「二十代」を区別する。が、もちろんこの類型化はあくまで比喩であると福田自身断っている。重要な点は年齢ではなく、それぞれの現実把握の様式及びその相違である。

結論から言うと、人間や自己のエゴイズムから出発してものを見ているのが「三十代」の特徴であり、イデオロギーや図式を信奉するがゆえにそこからはみ出るエゴイズム

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『小説の運命 Ⅱ』すなわち批評の運命

『小説の運命 Ⅱ』すなわち批評の運命

 『小説の運命 Ⅱ』は昭和二十三年に発表された。まず冒頭の引用から始めたい。

明治以来、近代日本の作家たちがそれぞれの方法でもって一途に探求してきたのもこの「精神が明確にみづからの存在を確証しうる様式」であったといえよう。

二葉亭四迷をはじめ、近代日本文学の発想と系譜は、大方、十九世紀ヨーロッパ文学の文学概念にその様式の模範を求めてきた。

しかしその後に誕生した日本的私小説という文学形式はつ

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【閑話】巨大な峰々と案内人F

【閑話】巨大な峰々と案内人F

遠くに巨大な峰々が立ち並んでいる。

「あの右前方に聳えている山の名前はなんですか」
わたしは隣に並んで歩いている案内人に尋ねる。

「はい、あれはソポクレスと言います」
「ではその横に連なる山の名前はなんですか」
「はい、あれは手前から順にソクラテス、プラトン、アリストテレスです」

わたしはそれを聞きながら、顔を左の峰々に向ける。
「ではあちら側に見える、ひときわ大きな山は?」
案内人が答える

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『小説の運命 Ⅰ』すなわち近代の運命

『小説の運命 Ⅰ』すなわち近代の運命

 『小説の運命 Ⅰ』は昭和二十二年に発表された。小説の運命 —— それは小説家であると批評家であるとに関わらず、およそ文学に関わるすべての者がよそに見ては避けられない問題であると福田は言う。

なぜなら小説の運命を考えるとは、散文の運命を考えることに他ならず、散文の運命を考えるとは、そのはじまりとしてのルネサンスを、すなわち近代について考えることに他ならないからである。自分の生きる時代について考え

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『文学と戦争責任』あるのは文学者としての責任

『文学と戦争責任』あるのは文学者としての責任

まず冒頭の引用から始める。

いかなる言葉を選択するかで問題の所在が決定される。そう前置きをしてから、福田は「文学者の戦争責任」という言葉について論じ始める。福田曰く、それは明らかに言葉の濫用である。そんなものはどこにも存在しないからだ。

福田は言う。仮に、戦時中に国民に対して宣伝的文章を筆にした作家に非難を加えるとするならば、詰問すべきは「文学者の戦争責任」ではなく「文学者としての責任」である

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