『現代人の救ひといふこと』物質苦と精神的苦悩の峻別
冒頭の引用から始める。
「現代人の救ひ」という課題を前にして福田は立ち止まる。なぜなら「現代人」という言葉と「救ひ」という言葉と、両方に疑念が沸くからである。
まずそもそも現代人とは何を指すか。我々は現代人とは言っても現在人とは言わない。この言葉の選択はどこから来るのか。
福田曰く、我々が現在ではなく現代と言うとき、そこには今日の性格に対する歴史的意味づけが行われていなければならない。
しかし「戦後の —— いや、戦争の前後を問はず、ここ何十年来のぼくたちの風習では、いついかなるときといへども真剣な現代解釈を、自分の眼で、自分の手でおこなつてきたためしはなかつたではないか」。(『現代人の救ひといふこと』福田恆存全集第一巻)
福田は言う。我々は自分たちの手で過去を現在と結びつける努力を怠ってきたのではないか。その間に立つあまりにも大きな断層を前にして逃避してきたのではないか。その結果として未来図を描くことばかりに注力し、現在の自分たちの位置を自分たち手で位置づけることをして来なかったのではないか。
要するに、我々の言う「現代」はヨーロッパの言う「現代」に過ぎないのではないか。
我々の言う「現代人」は本当に我々自身のことであろうか。もう一度考え直す必要があろう。
また、「救い」という言葉、福田はこれに対しても疑問を投げかける。当然救いというものは絶望を前提とするもののはずだ。けれども我々は 、政治的(物質的)には解決しえない絶望の地点にまで行き着いているだろうか。福田の答えは全く否定的である。
なぜ我々には絶望がないのか、絶望できないのか。答えは単純だ。我々には理想がないからである。理想こそ絶望の前提であるのだから。
福田が何よりも警戒するのは、物質苦と精神的苦悩の安易な混同である。たんなる物質苦の問題を精神的苦悩の場へ移して、絶望のポーズを真似ていてはならない。
事は単純である。物質的に解決できるものは物質的な解決を目指せばよいということだ。室内の暑さからの救いを文学に求めるでない。それはエアコンが解決する問題である。飢えは食料が、乾きは水が救う。
要するに福田が主張していることは、政治と文学の峻別である。
それは救いを必要とする人間と必要としない人間の峻別であり、救いを要求する領域と不必要とする領域の峻別である。
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