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チェロキー族の物語と「我々が泣いた道」

これは、ネイティブ・アメリカンのチェロキー族の物語。内容を変えずに、私の言葉で少し書き直し&要約してみる。

チェロキー族の男性
チェロキー族の女性
チェロキー族の子ども

動植物と人間は、バランスを保ちながら、この星で一緒に暮らしてきた。

時が経つにつれて、そのバランスが崩れていった。人間が崩した。人間は、自分たちばかり多く場所をとるようになって、武器を作って動物をたくさん殺すようになった。

動物は話しあいの場をもった。


〜クマの評議会〜

人間に友達が殺されたこと。これが一番の理由で、クマは、人間と戦争をはじめようと決意した。

我々も人間と同じ武器を作って対抗しようぞ!アイツらの弓は何でできているのだ?木と私たちクマの内臓の紐です……。1匹のクマが、武器づくりのために、自らを犠牲にした。

道具はそろったが。やれ、使ってみると。長い爪が邪魔をした。うまく弓を射れなかった。爪を犠牲にしましょう!いや、待て。木に登るには爪が必要だ。議長が言った。

爪を切り落としてしまったら、戦うどころか、全員飢えてしまう。人間の武器は我々にはあわないのだ。悔しいが、自然が与えてくれた爪や牙を信頼する方がよかろう。

これ以上よい計画を誰も思いつかなかったので、解散した。

〜爬虫類と魚類の評議会〜

ヘビは人間に、ぬるぬると絡みつく夢を見させた。サカナは人間に、生の魚を食べると具合が悪くなる夢を見させた。

〜両生類の評議会〜

人間は私を醜いと言い、私を蹴り飛ばした。そう言ってカエルは、自分の肌の斑点を見せた。

他にも。シカや鳥類や昆虫の評議会が行われた。みんな、人間を有罪だと主張した。

リスだけが人間を擁護した。リスはとても小さいため、人間にめったに傷つけられなかったらしい。そんなリスの意見に、他の者たちは激怒した。リスを爪で引き裂いた。その傷跡が、今でも、背に残っている。


やがて、動物は1つの対抗策を見い出した。

病気を使って、人間を苦しめることにしたのだ。彼ら彼女らは、次々と、新しい病気を考案していった。

現実的には、感染症の意味になる。

イモ虫は、新しい病気が生み出されるたびに、大喜びした。ワド(ありがとう)!もう何人か死んでくれるとうれしい!と叫んで倒れてから、立ち上がることができなくなった。それ以来、身をくねらせている。

病気のリストの最後頃、誰かが、女性の月経も苦しいものにしたらよいと発言した。


〜植物の意見〜

植物の耳に、動物が人間に何をしているのか、その詳細が届いた。事態をみかねた植物は、動物の計画を打ち負かそうと決めた。人間側にミカタしたのだ。

草木やコケやハーブが、さまざまな病気の治療法を提供した。人間よ、困った時は私たちを使いなさい。

こうして誕生したのが、医学である。

植物は、人間に、何を・いつ・どう使えば適切かを教えることまではしないと決めた。自ら努力して調べなさい。動物の復讐はいきすぎだが。最初に悪いことをしたのは、やはり、人間の方なのだから。


以上。『医学の起源』という物語だ。

動物と人間の争いを見て、バランスを回復するために、植物は人間の側に立ったと。

チェロキー族は、農耕生活も営む部族だった。このことは、植物が人間を救うという内容と、無関係ではないだろう。

ネイティブ・アメリカンにとって、動植物は、家族の一員だ。動植物(家族)に敬意をはらわなければ、世界(家庭)はアンバランスになり、崩壊する。


人類学者は基本、ネイティブ・アメリカンの信念体系を、アニミズムだととらえているが。どうなのだろう。

彼ら彼女らにとって、それはあまりにも当然のことであり、〇〇イズムなどというものではないのかもしれない。

全ての生物はマトリックスに属しており、精神的かつ物質的に、シンプルでありながら複雑なのだ。死によって地球の一部となる。返報性サイクルだ。

世界はハーモニーだ。人間が動植物をモノのように扱えば、美しいハーモニーは奏でられない。


これは私の体験談だが。

ある国(G7に入る国)の教授がこう言った。あなたたちの国が、私たちの国をまねてハーモニーをやめた時、私はショックだった。彼女は、「終身雇用」のことをハーモニーと言い表して、そう述べた。

私自身いろいろと思うことはあるし、読んでくれている人も、言いたいことがあるだろう。隣の芝生は青いというか、物事には多面的な見方があるというか。ちょっとした気づきレベルで、聞いてほしいだけだ。

私がボランティア的に外国語を教えている子どもたちの1人が、彼がまだ中学生だった頃に、言った。年収〇円以下の国民は、享受しているものの方が多いーー世間でよくいわれる、こういった言説に対して。「俺、よくわかんねぇけどさ。金しか渡せるもんがないと思ってんの、悲しくね?」

現実的な話、非常に “正解” に近い。彼は、座学を経ずとも、コアを知っていた。私は彼の先生であるかもしれないが、彼もまた私の先生なのである。そして、大切な友人だ。子供たちは、それ以外にも、ありとあらゆることを私に教えてくれる。

チェロキー族によると、植物は、薬師やシャーマンにだけ話しかけるという。


スー族のシャーマンの言葉。

「白人は、食べるために水牛を殺すわけではない。金属(お金)のために殺す。皮だけをとっていく。時には、皮さえもとらずに、舌だけをとっていく。ミズーリ川を下る彼らの船には、乾燥したバイソンの舌が、山積みになっていた。あれをやった男たちは、確実に狂っている」


チェロキーは他称である。「山に住むもの」または「わかりにくい言葉を話す人たち」という意味。ほら、明らかに他称だ。

チェロキーは自分たちのことを、「これらは全ての人間である」という意味で、アニ・ユン・ウィヤと言っていた。感慨深い。

彼ら彼女らは、北米大陸の東部から南東部にかけて、ミシシッピ川流域に住んでいた。

老若男女が、政治に参加する仕組みだった。評議会での平等な発言権など。そして(他の多くのネイティブ・アメリカンの部族と同様に)、首長/部族長とは調停者であり、他者に指示を出すような存在ではなかった。「リーダー」とはまた違った。


18世紀のチェロキー族の歴史は、英国や米国との戦いの歴史であった。

1794年に米国と休戦条約を結んだ後、彼ら彼女らは、“文明化” することを選んだ。

チェロキー族は、他ネイティブ・アメリカン4部族と、5大部族連合を結成した。白人の文明や社会の仕組みを受け入れることに決めた、連合だった。

生き残るために。

そのことから、文明化5部族と呼ばれている。

これも勝手な他称にすぎない。歴史は、往々にして、世界の一部の人たちの目線で語られている。


アメリカの軍事力に、屈服を余儀なくされ。彼ら彼女らは、現在のオクラホマ州に、強制移住させられた。徒歩で。

道中、数千人のチェロキー族が亡くなった(全体の約1/3)。確かな数はわからない。数えてくれる人など誰もいなかったのだから。中には、当然、子どもや老人もいた。

この絵ように。全員が全工程、徒歩だったわけではないのかもしれない。馬や荷馬車に、交代で乗れたのかもしれない。

それでも。真冬だった。食糧は足りたのか。水は確保できたのか。


文字を読むだけで終わらず。リアルにイメージしてみてほしい。自分で。自分の家族で。自分の友達で。自分の愛する人たちで。

1人1人死んでいくのだ。その亡骸をおいていくのだ。女性の方が弱い。男性が女性を守れないつらさ。子どもの方が弱い。親が子を守れないつらさ。ハッキリ言って、地獄絵図だ。

罪とは、窃盗や詐欺や傷害のことだけではない。人を人としての尊厳を守れないような状況においやること。これは、大変罪深い行為である。


チェロキーの言語で、この出来事は、「我々が泣いた道」と呼ばれている。

「涙の道」ルートマップ

追悼のモニュメント(サムネのものとは別。本当にただの石の板)の画像もあるが、載せない。そんなものどうでもいい。

あの出来事を忘れないだとか・同じ過ちを繰り返さないだとか。心にガツンとくるべきもので。記念碑がその役割を果たすとは思えない。(主観)

あなたの・あなたしか知らない、張り裂けそうな心の痛みや言葉にならないほどの喜びの瞬間は、たとえば「青春」の一言と、イコールではない。


歩きながら、「アメイジング・グレイス」を歌って、士気を高めていたという。

キリスト教の賛美歌が、これより前に、宣教師 (?) によって伝えられていたのだ。チェロキー語を扱えた白人から、歌詞の意味も聞いた上で、彼ら彼女らはこの歌を気に入っていたという。

なんだこの悲しい話は。悲しすぎる。悲しみにも、笑いのように、ツボ的なものがあるとして。私のそれに、ぶち刺さるのだが。

十字架の道行き

重い荷物を背負って・徒歩で・指示された場所へ向かわされた人たちが、賛美歌を歌っていたらしいよ。

どうするんだよ。これとこれをどう整合性を保つっていうんだ。

世の中には時々いる。定義は何ですかなどと聞いてくる輩が。本当にわからないのか。一度教えるから、二度と聞いてくるんじゃない。

「違い」が人種しか見当たらない時、それを人種差別という。

言葉に対してヘラヘラしているつもりだろうが、そういう輩がヘラヘラしている対象は実際、大勢の人間の痛みや苦しみだ。


遠い昔の、私たちには関係ない話?

以下の、チェロキーの血を受け継ぐ著名人らの名を聞いても、本当にそう言いきれるだろうか。

エルヴィス・プレスリー、ジョニー・デップ、ケヴィン・コスナー、キャメロン・ディアス、ジミ・ヘンドリックス、クエンティン・タランティーノ、ジェームス・ブラウン……

この人たちは、「涙の道」で何世代か前が亡くなっていたら、この世にいなかった人たちだ。


人が1人亡くなるということは、人が1人亡くなるということではない。人類全体にとって、大切な人が、1人亡くなるということだ。

今この瞬間にも。争いで。1人また1人と、私たちは、大切な人を失っている。

他のネイティブ・アメリカンの部族が出てくる回。気になったらこちらもどうぞ。