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脱学校的人間(新編集版)〈52〉

 人が何らかのことに対して努力するということは、本質的に「意識的なこと」であり、なおかつ「主体的なこと」である。人は「自分が」あるいは「自分から」意識して努力するのでなければ、そこに努力と呼べるようなものは「何一つとして存在しない」のだ。見方を変えると、むしろ人には「本質的に努力しなければならないようなことなど、実際には何一つとしてない」のである。なぜなら、そもそも人はけっして「自然には努力しない」ものなのだから。
 ゆえに、人が自分から進んで意識的あるいは主体的に努力するようになるためには、何であれその人自身が「その気になる」ということがなければ、その人自身はいささかも努力することなどできないものなのである。だから、そこで人が自分から進んで努力するようになるために、何であれその人自身が「その気になるための対象」というものが必要になってくる。一般的に言えばそこでは、「努力をすればいずれこのようになれるだろう」という、彼の努力に対する何らかの「成果の約束=保証」が、おそらくはその対象になるはずなのであろう。

 しかし一方で、「もし努力をしなかったらきっとこうなってしまうだろう」という不安というものも、やはりそのように人をその気にさせる対象となりうるはずのものであろう。いや、むしろそちらの方が人を「より強くその気にさせる」ものとなるのかもしれない。
 人は「今まで自分のしてきたことが全く何にもならないかもしれないということを、他の何よりも強くおそれる」ものなのではないだろうか?もし本当にそのようになってしまえば、結果的にそこには「自分自身そのものがなかったことになる」のと同じではないのかとさえ思えてしまうものだろうから。
 もし「努力したらこうなる」というのであれば、まだしもそこには「こうなりうるものがそこには在る」というように思いうるものだろうし、なおかつ「こうなりうる自分がそこに在る」というように思い描きうるものであろう。しかしもし、「努力しなかったら何もない」というのならば、そこには「努力しなかった自分すらない」ということにさえなってしまうだろう。そしてもしそうなれば、「何もない自分とは一体何なのだろうか?」というように考えることすらできないことになるだろう。こうしたいわば「無への不安、あるいは恐怖」こそが、何よりもその人自身の「その気に火をつける」ことになるものなのではないのだろうか?
 とはいえ、そういった「無の恐怖」に追われながら走り続けるということは、一見まるで「主体性がない」ものであるようにも思えてくる。だが一方では、たとえそれが「無」という対象から追われているという理由にすぎないことだとしても、それでも「無に追われる者」は、彼自身が「自分から意識して、あるいは主体的に走ろうとするのでなければ、ただの一歩でさえも走り続けることはできないのだ」とも言えるわけである。要するに人が「主体的であること」とはそのように、一方の側面では自分自身の主体性を失いながら、しかしむしろそのことによってさらにもう一方の側面で、自分自身をようやく主体化することができているのだという一つの逆説、あるいは不条理においてこそ、成り立っているものなのだというように考えることもできるのではないだろうか。

〈つづく〉


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