脱学校的人間(新編集版)〈82〉
人は一般に「社会をよいものにするために、悪い社会を変えようとする」ことであろう。そして、社会をよいものにすることこそが、人が幸福に生きるための最優先となる条件であるとし、またそのように考える限りで人は、それをたとえば「自分自身の人生において、最大の目的とする」ようにもなっていくところだろう。「いずれこの目的が達成されたあかつきには、自分自身もまた当然のごとく幸福になれるはずなのだ」と信じて、彼は日夜その条件を満たすため、西に東に粉骨砕身奔走することでもあろう。
しかし、「ある人々」が不幸なのは、はたして本当に「現在のこの社会が悪い社会だからだ」ということなのだろうか?むしろ、よい社会でなければ人は幸福になることができない「と見なされていることこそが、そもそも不幸の根源」なのではないだろうか?「それ以外では幸福たりえない」とされているものに対して見出されることとなるような「欠如の意識」が、むしろ「それ以外の生活を現に送っている人々に、実際に不幸を見出させている」のではないだろうか?人がもしそのように「わが不幸な人生」を見出しているとしたら、それは「自分には『よい人生』というものが欠けているのだ」という自己認識にもとづいて、そのように満たされていない自己自身の現実を、「『不幸な人生』という、すでにある観念あるいは表象に還元して」見出しているのにすぎないのではないのだろうか?
「よい社会にしたい、そして自分自身そのような社会で暮らしたい」と欲求するのは、たしかにある程度は人間にとって「自然な」感情なのかもしれない。しかし、「よい社会とは、結局のところ悪い社会との対比においてのみ成立しているものなのだ」というように考えることはできないものだろうか?
たとえば「悪い教育が施されると悪い社会になる。だから、よい社会を作り出すためにはよい教育が施されなければならない」と人は一般に考える。しかし実のところはそのように、「自らが為そうとすることを理由づけ=条件づけるため」においてのみ、「悪い社会なるもの」はあらわれてくるものなのではないだろうか、いやそれによって「悪い社会が生み出されてくる」ものなのではないのだろうか?「悪い社会」とは、結局そのような一方的な理由づけ・条件づけの口実として、「よい社会」からいいように利用されているだけなのではないだろうか?
「教育が悪いと社会が悪くなる」というばかりではない。「そもそも学校のない社会は不幸な社会なのだ」とする見方もまたあるわけである。たとえば「発展途上国・後進国においては十分な教育がなされていないから、その社会は乱れ貧困が増大し、内戦やテロがなくならないのだ」等々、あたかも教育が十分に施されていないことが、あらゆる社会的な不幸の元凶であるかのように「理由づけ」られている。
そこで、発展途上国・後進国において「十分な教育を受けていない人たちの大部分」が、自分たちがそういう境遇に置かれているということを「すでに知っている」のだ、というように想定してみよう。つまり彼らは何らかの形で、この世界には「学校がある社会」なるものが、現にどこかに存在しているのだということをすでに知っているのだ、とする。しかしそれは、「自分たちのこの社会」ではないのだ。もしも教育を受けられさえすれば、あるいは学校がありさえすれば、自分たちだって幸福になれるはずなのに、そして自分たちはそのことをすでに知っているのに、しかし「自分たちのこの社会」にはそれがない。そのように、この世界に「すでにあるもの」を、しかし自分たちはまだ得ていないということに対して、そこで彼らは「欠如の意識」を覚えることになる。そしてそのことについて彼らは「自分たちは不幸だ」と考える。そのように、不幸を感じる精神は荒み、社会を乱れさせ、貧困を増大させ、内戦やテロを引き起こさせているのだ。
どうだろう?「立派な理由」になっているではないか?
〈つづく〉
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