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脱学校的人間(新編集版)〈36〉

 労働力商品として売られた子どもは、市場では当然「大人よりも安価な労働力」として買われることになる。なぜなら子どもは「大人に対して欠如した存在として見なされている」からである。だから彼ら子どもの労働力の価値は何よりもまず、大人の労働力と比較すれば相対的に安価で買うことのできる労働力として成立することとなるのだ。
 労働力市場において、もし同等の生産力を持った労働力と見なされているのであれば、より安価な方が買われることになるというのは、「市場原理」として当然のことである。さらにそこでもし、求められている生産活動が「子どもの生産力」でも十分機能しうるというのであれば、誰もわざわざ「高価な大人の労働力」を買う必要はあるまい。
 というわけで、子どもの労働力はそれが安価であるがゆえに容易に買われうる商品となる。この「商品の売りどころ」はまさしくその「安さ」という点にあり、逆に見ればそれ以外にさしたる売るべきポイントもない。
 そのような子どもの安価な労働力を実際に買うのは言うまでもなく「大人たち」である、つまり「労働力を生産手段として、すなわち自らの資本として所有する、生産社会の支配階層に属する大人たち」である。そんな彼らは、安価な労働力としての子どもたちを、その価値相応に扱う。要するに「安上がりなもの」として、さらには「安くて換えが効くもの」として、それ相応に「安っぽく」扱う。なぜそのように扱えるのかと言えば、それは彼らの買ったこの労働力が「ただ安いだけのもの」だからであるのに他ならない。「それ以上の価値が見出せないもの」を、それほど大事に扱う必要など、一体どこにあるというのだろうか?
 一方でそういったことを「過酷だ、残酷だ」と見咎め非難するのもまた、やはり同様に「大人たち」である。子どもを過酷に扱う者と、それに対し憤然と見咎める者。一見して相反する思想と立場を有するものであるかのように思える、この双方の「大人たち」は、しかし実は「全く同じ立場にいる」のだということを、ここでけっして見逃してはならない。彼らが見出している「もの」とは、あるいはそのように見出している彼ら自身の「視点」とは、実は「全く同じもの」であるのに他ならないのである。

 子どもの労働を見咎める大人たちは、「そのように安価な労働力として過酷な労働に従事させられている子どもたちは、十分な教育さえ受けることができていないではないか」と口々に指摘し非難する。そして、「われわれはその『苛酷な児童労働のあり方に心を痛め、人道的立場から義務教育の必要性を世に提示し訴えている』(※1)のだ」と、自らの立場の正当性について何の恥じらいもためらいもなく、堂々と胸を張っているわけなのである。
 しかし、彼らは「子どもたちに教育を与えることのできる立場にある者」として、むしろその実態としては「社会の支配的な階層に属している者たち」なのである。そんな彼らが、安価な労働力として過酷な労働に従事している子どもたちを、「十分な教育を受けていない者として措定すること」によって、むしろ逆にそのことが、この子どもたちを「安価な」労働力として、すなわち「教育を受けることにより上乗せしうるような何らの付加価値もない、ただ安価なだけの労働力」として取り扱われることの、その正当な理由として成立させてしまってさえいるのである。そのことはまた、彼らが自分たち自身もまた状況次第では子どもたちを収奪しうる存在であることに、一定の正当性を与えてしまってさえいることにもなるのだ。
 そして、さらに言えば「そのような立場にある大人たち」が、まさしく一方では「そういう子どもたちを実際に買っている」わけなのである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 内田樹「下流志向」


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