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脱学校的人間(新編集版)〈41〉

 この社会においては、ほとんど全ての人たちが「他の人とだいたい同じような人間として、何らかの職業集合体の一員になる」ものなのだとして、ところでそれが「その人自身を特定する機能をも果たす」というのは、一体どのようにしてなのだろうか?
 繰り返すと、他の人とだいたい同じような人間として、その人はある一つの集合体の一員になる。つまりその人のすることは他の人のしていることと同じ基準を持っているということになる。その人ができることが他の人もだいたい同じようにできるからこそ、彼らは同じ集合体の一員になっているのである。
 しかし、彼らがそれぞれその時々において実際に何をしたか、あるいは実際何ができたかは、それぞれがその時々において直面するそれぞれの現実によって、少なからず違ってくるものだろう。そういったその時々の具体的で「偶然的」な現実が、彼らがその時それぞれにすることやできることの「条件」を変えてしまうのである。
 たとえ同じ一つの教室で、どれも同じように並べられた席に着き、一定の同じ時間を共に過ごしたとしても、たとえば窓際の席と廊下側の席では日当たりや風通し、あるいは教壇で授業をする教員のその声の届き方や、周囲の席の者らとの微妙な人間関係まで、そこで過ごす日々の条件や環境はそれぞれによって違うものだろうと言えるし、それによってそこで直面する「現実的な経験」というのもまたそれぞれ違ってくることだろう。
 もちろんその「違い」は、「全く違う」というほどのことではないかもしれない、しかし、少なくとも「ちょっとくらいは違うもの」だということは、誰しも経験的に認めていただけるのではないだろうか。そして、この「ちょっとの違い」が実に大事なことなのだ。そのような「ちょっとの違い」からはじまって、結果的にその後の何もかもが大きく変化していってしまうなどということも、少なからず誰もが経験してきているはずである。実に人間それぞれが具体的に生きている現実とは、こういった「ちょっとずつ違っていって、最終的にはそれぞれバラバラな条件や環境になっていってしまうもの」なのだ。
 人は「だいたい同じような人間」として学校から社会に送り込まれてくるわけだが、しかしいくら「だいたい同じような人間」として作り出されるとしても、もちろん誰一人として「まるっきり同じ人間ではない」だろう。もし本当にまるっきり同じなのだとしたら、それこそ数にも量にも換算できない「まるっきり一つのもの」にしかならないのだから。
 だからむしろ人を「社会的な人間」として作り上げていく上では、それを作る側としては多少なりとも「それぞれに違っていてもらいたい」くらいなのである。しかしそれも、ただ単にそれぞれ違うというだけではなく、その違いがわかるためにはあくまでも「同じ基準のもとで違っていなくてはならない」のだ。上記の例えで言えば、「一つの同じ教室で同じ時間を共に過ごした」という一定の同じ基準から、それは見られるものでなければならない。そうでなければ、何もどのようにも比べることなどできはしないのである。

 近代国家の生み出した、制度としての「学校」は、だいたい同じような人間という同じ基準を持った人間を大量に生産する。その同じ基準をもって、それぞれの人の違いがわかるように、それぞれの人の「できることやしたこと」に応じて、「その人の価値」を表すことができるようになる。
 逆に言えばそれによって、もはやそれぞれの人はそれぞれ自己の基準で、あるいはそれぞれ自己の都合で、他の人との違いを「自己主張する」などということが、以降はけっしてできなくなるわけなのである。「自分は他の人と違う」などということが言えるようになるためには、まずはともかく「みんなと同じ」にならなくてはならない。同じであるというところから見えてくる違いが自分自身を表すのだということを、自分自身として受け止め、なおかつそれを受け入れるためにも、人はまず他の人とだいたい同じような人間にならなくてはならないのである。「規格にはめられ標準化される」(※1)ことというのは、まさにそのような「違いを表現するため」にも、それぞれの人にとって何より必要なこととなるのだ。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 上野千鶴子「サヨナラ、学校化社会」


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