可能なるコモンウェルス〈43〉

 プルードンの考える社会契約は、「理念」であるという以上に、あくまでも「実践」を前提とした具体的なものとして構想される。彼が第一義的に掲げる「交換」とはまさしく、そのようなものとしてある。
 そして逆説的に言えばこの「交換」という、具体的で「実践」的な表象が、この契約関係においてはある意味「理念の中心」として機能するわけなのである。
「…交換的正義、契約の支配、換言すれば、経済的ないし商業的体制----これらは、それの到来によって、配分的正義、法律の支配、より具体的に表現すれば、封建的、統治的ないし軍事的体制といった旧諸制度を必然的に廃止することになる理念のさまざまな同義語である。人類の将来は、まさにこの代位において存在するのだ。…」(※1)
「…法律用語の契約・交換的正義という言葉を実業用語に翻訳してみたまえ。そうすれば諸君は、《コメルス》を持つことになろう。コメルスとは、すなわち、もっとも高度な意味においては、人と人とが本質的に生産者であることを宣言して、彼らが相互に対して統治へのあらゆる主張を放棄するための行為である。…」(※2)
 ところで、ここでプルードンが使っている言葉「コメルス=commerce」については、彼の同時代を彼以上のラディカルさを撒き散らして駆け抜けた異色の思想家マックス・シュティルナーも、「commercium=コンメルキウム」といったような少し古めかしいラテン語に換えて用いているのであった。
「…交通(フェルケール)とは、相互関係(ゲーゲンザイテイヒカイト)であり、交渉(ハンドルンク)であり、諸個人のCommercium(※訳註・商売、取引の意)である。…」(※3)
 奇しくも彼らは同じような目線から人と人との「関係」について、社会的な流動性のまさしく「流動的な関係」を核心的に表象する、「交換=交渉=交通」として見ていたのだった。つまり、「一般的な社会契約」において実現されるべきものとされているところの、「一定に維持された人と人との関係の状態について、そこで関係する人々が、総じて『社会』と呼ぶようになる」結果に帰着するものとして、まさしく「実際の」人と人の関係を見出そうというのではなく、あくまでも「人と人とが互いに働きかけ合うこと、それ自体」として、見出そうとしていたのだと考えることができる。そこで「交換=交渉=交通」とはまさしく、そのような働きかけそれ自体を表象する言葉となるわけなのである。

 とはいえもちろんルソーなどにおいてであっても、殊に「自然状態」における人と人との関係については、それが「交渉的」なものでありそれゆえに「流動的」なものとして捉えられてはいるのだろう。「万人の万人に対する闘争」といった定義などはまさしく、そのような「交渉的なもの」として設定されているわけであり、またその「闘争の結果」はあくまで、「流動的なものとしてあらわれうるもの」として考えられているはずなのである。
 しかし、実のところそのような見方の前提には、やはり「一定の状態に固定された個人」が設定されているのである。そしてそのような個人が「所有する能力」とは、たしかに「万人の」能力に比べると明らかに「限定的で弱いもの」であると見なすことはできるのだ。個人の所有する能力がそのように、「有限で不十分なもの」である限りは、「万人の万能性」にはとてもではないが敵うわけがない。だから個人はその能力を「万人に譲渡」し、それによって「万人の万能性を共有する」ことによって、彼自身もまた「万人となることができる」ところとなる。ひいてはそれによって、「彼自身もまた万能であることが可能となる」わけなのであろうし、何より彼自身「そうあらんと欲する」わけなのである。なぜなら、「万人の万能性が無際限である限り」においては、それを「自身の能力として万人と共有する」ことができるというのであれば、それで彼はもはや「無敵」となることさえできるからだ。
 このような「社会的無敵性」を、彼は万人との関係においてその「共通の利益」とし、それをあらためて「彼自身に還元する」ことで、彼の社会的な自己の保存という「目的」は、晴れて実現されることになる。もちろん言うまでもないがこの「目的」こそ、社会契約の最大にして中心的な名目となっているわけなのだ。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 プルードン「十九世紀における革命の一般理念」渡辺一訳
※2 プルードン「十九世紀における革命の一般理念」渡辺一訳
※3 シュティルナー「唯一者とその所有」片岡啓治訳


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