可能なるコモンウェルス〈42〉

 人と人との間で、あるいはそれが大きく一つにまとめられた人間集団の中で、通常見られているような関係性の、その「外部に生じる関係性」としてあらわれ、それを出発点としてあらためて人と人との「間」で形成されうべきものとはずの、本来的な意味としての「社会」なるもの。
 そのような「社会」に根差したものとして構想されていると考えられ、また本人もそのように主張している、プルードンの「社会契約」理論とは、では一体どのようなものだというのだろうか?ここで今一度、彼自身の言葉に耳を傾けてみよう。
 まず、「社会契約とは、交換契約の性格を持つ」(※1)ものなのだ、とプルードンは定義する。またこれは、「契約当事者間の交換についてだけを対象とする」(※2)ものであるがゆえに、この「契約は本質的に双務的なものである」(※3)として、この「契約の性格」に一定の方向性を与えている。
 ところで、そもそも「契約」とは一体何であるか?
「…契約とは、それによって二名または多数の個人が、彼らのあいだで、ある限界内で、ある特定の期間、われわれが交換と呼んだ産業的な力を組織化することに合意する行為にほかならないということ、これである。…」(※4)
「…(…契約によって二名または多数の…)個人は、結果として、相互に義務づけられ、またある特定量の役務、生産物、諸利益、諸義務その他を相互に保障されるようになる。ちなみに彼らは、以上のものを相互に獲得し、提供することができる一方、他の点では、消費のためであろうと、生産のためであろうと、完全に独立していることを相互に認めあうのである。…」(※5)
 ここで考えられている契約関係は、そこで実際に取り交わされている契約事項の、「その他の点」について何ら介入するものとはならないのだから、あくまでも実際に契約当事者となる、二名ないし多数の個人相互で提供・獲得が保障された、その契約上「特定の」結果に関わること以外では、けっして「契約当事者の労働を少しも規定しない」(※6)し、さらに「その労働の結果を、契約の前提とする」こともない。
 ゆえに「それは、契約当事者たちに、相互的引き渡しの彼らの個人的約束から結果する義務以外のいかなる義務をも課さない。契約は、どのような外的権威の支配をも受けない。それはただ、それだけで当事者たちの共通の規範を形成する。それは、契約当事者たちの発意からのみ、その実施を期待する」(※7)ものなのだとして、プルードンはこの「契約の実行領域の、その限界を、あらかじめ規定しておく」わけである。
「…法律上の諸定義および普遍的実践によれば、社会契約は以上のようなものでなければならない。…」(※8)
 すなわち「法律」とは、「自身の力の及ぶ範囲」についても含めて、「話はここまで」という限界をあらかじめ規定するものとして機能するべきなのだ、とプルードンは主張しているわけなのであった。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 プルードン「十九世紀における革命の一般理念」
※2 プルードン「十九世紀における革命の一般理念」
※3 プルードン「十九世紀における革命の一般理念」
※4 プルードン「十九世紀における革命の一般理念」渡辺一訳
※5 プルードン「十九世紀における革命の一般理念」渡辺一訳
※6 プルードン「十九世紀における革命の一般理念」
※7 プルードン「十九世紀における革命の一般理念」
※8 プルードン「十九世紀における革命の一般理念」渡辺一訳

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