見出し画像

脱学校的人間(新編集版)〈49〉

 「誰もが皆だいたい同じである」という統一された基準において作り上げられた上で、そこにそれぞれの間で生じる「ちょっとの違い」を価値として付加されて、全ての人間は学校から社会に送り出されてくる。
 そのような「価値」というものは、時には「個性」と呼ばれたりしている。あるいはそのような個性を集合させた有り様を、時に「多様性」などと呼んだりもするわけである。
 しかしそういった個性にしろ多様性にしろ、結局のところそれに「社会的な」有用性なり生産性なりといった機能が含まれているのでなければ、社会的に認められ受け入れられるということはけっしてないのだ。ゆえに、そういった個性なり多様性なりといったものは、ときにはあたかも「社会のためにあるもの」であるかのようにさえ、一般には思われているくらいなのであろう。 
 できるだけ他人と同じようにしていながらも、しかしその「同じようなことの総体量」を他人より少しでも多く所有することにおいてこそ、「だいたい同じような人間であることを基準とした、個々にあるちょっとの違い」として生じる、いわゆる「個性」なるものは、結局のところはあくまでも、「社会的に価値あるもの」という意味合いにおいて決定されている。
 そのような個性の獲得過程とは、本質的に一般化されたものであるというのは、今さら言うまでもないことだ。なぜならそれは、「だいたい同じような人間を基準とする限り、誰にでもできることとして獲得されるものでなければならない」のだから。
 「何者でもない自由な個人が、ある一定の条件の下であれば何者にでもなれる」というのが「近代的個人=主体」の原理であるならば、「誰にでもできることを、より多くできる」ということこそが、そのような個人=主体に「求められている個性であり能力」の本質である。そもそも「何者でもない自由な個人」が集結して形成されているのが「近代社会」であり、その中で求められる個性をより多く所有することによってでしか自己なるものが認められないならば、そのような「自己」とはまさしく、「誰もが求められているもの」なのだと言えよう。だから「私も」そうでなければならないし、「あなたも」またそうでなければならない、「そうでなければ誰も、何者でもないままである」というのが、近代的個人=主体の「一般的な条件」なのである。

 平野啓一郎は「個性」について「一人一人の個人に特徴的な性質」と定義づけ、「われわれは、それぞれ自分の中に何か人とは違う個性的なところを見つけたいと願い、人に左右されずその個性を大切にしたいと思っているのだが、しかし一方でその自分自身の個性というものが自分自身ではわからないというのが、いつでも人々の煩悶の種にもなっているものなのだ」(※1)と言う。
 しかしもし、個性とはそのように「他人とは違うものとして見つけ出されるもの」だとすれば、それはむしろ「その人自身において本来的に見出されているもの」だというよりも、「後になって誰か他の者から見つけ出されるもの」だとも言えるのではないだろうか。言い換えると、「自分と他人との違い」を見つけ出すことができるのは、自分自身であるよりはまさに「その違いを見出せる立場に立つ他者」なのであり、他者によって見つけ出され認められるところとなった違いであるからこそ、その人自身の「価値」としての個性が成立するところとなるのだ、とも言えるのではないだろうか。
 そのような意味において、個性もしくは「本当の自分」とは、そもそも「他人に左右されているもの」なのではないだろうか。逆に言えば「自分の個性」などというものは、そもそも本来的に「自分自身ではわからないもの」なのではないだろうか。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 平野啓一郎「私とは何か」


◎『note創作大賞2022』に参加しています。
応募対象記事 「〈イントロダクション〉」 への応援、よろしくお願いします。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?