見出し画像

何をもって「親ガチャ」なのか


ここ最近、親ガチャ論争が巻き起こっている。

少し前から、自分の生まれや環境をソーシャルゲームのガチャ・システムに掛けて考えられていた。

良い生まれならば“SSR”、恵まれていなければ“ガチャ運”なしという感じだろうか。


しかし、親ガチャ論争似た部分は目新しいものではない。

社会学も教育社会学のなかでは、生まれた生育環境・教育環境によって人生の質は大きく変わることは言われてきた。その重要な部分を担うのは家庭、つまり親の力である。

学術的にいえば“文化資本”の良し悪しが、子どもの人生の選択肢や経済的部分を広げるということだ。ブルデューやポール・ウィリスなどが有名どころだろうか。

文化資本は、親の教育レベルや文化レベルなどに依存し、家に百科事典があるか、おやつは手作りか、習い事をしているか、新聞を読んでいるか・・・

そんな小さなことだろうが、そういった積み重ねも大切だと言われている。
お酒の種類でも文化資本が分けられたものがあったような・・・汗

親の教育レベルが高ければ、必然的に子も教育レベルは同等になるだろうし
教育レベルを上げる方法も示すことができる。

しかし、みんながみんな親の文化資本レベルによって子もそうなると言えない。

階層移動という「親が高卒→子が大卒」「親・子ども時代は貧困→子が大人でお金持ち」という関係性は少なくない現象である。もちろんそれは、社会が何を良しとしているか、今よりも上位にいくための方法に対する情報アクセスや選択肢があったかなどが関わってくる。

だから何を持って「親ガチャ」なのかというのは広義すぎてしまう。


単に自分(子)に対して湯水のごとくお金をくれないから
「親ガチャ」は失敗した!!!


というのは大きな間違いである。

確かにお金持ちの家に生まれれば自分の欲を満たしてくれるだけのお金を親が出してくれるかもしれない。高偏差値な大学に通っている人の多くはミドルクラス以上の家庭なことが多い。

親が自分のことを良く考えてくれて、お金もたくさんかけてくれて、わがままを聞いてくれて、大学も会社も有名で高収入にしてくれるだけの教育を与えてくれて・・・

でもこれだけものを与えてくれる家庭生まれることは、そうそうないだろう。

お金はあってもケチな家庭で、国立大学しか認めない、常に勉強でDV家庭だという阪大生もいた。かと思えば、自分は貧困だったということを売りにしているが、うまく教育環境や親の協力があったからこそ上手くいった東大出身?在学中?のライターもいる。

だから、何をもって「親ガチャ」なのかを冷静に考えないと傲慢な自慢にもなりえると感じるのである。

私の場合、中学校時代のいじめを親は助けてくれなかった。DV家庭であったし、平均的より少し低い所得でもあったから裕福なものでもなかった。完全なブルーカラーの家庭で、父高卒・母専門卒で、頭もそんなによくなく偏見の塊な行動も目立つ。奨学金も借りた、大学院の学費と生活費は自分で捻出した。

それでも大学・大学院に行けたのは、既存の学校教育を受けられなかったという恥ずかしさから、ひたすら情報を自分で獲得したというものもある。親ガチャが失敗したからこそ、自分でできることは探したし、戦った。

ただ、親ガチャに失敗していなければ「もっとなだらかな道で苦しむ経験が少ない」人生であっただろうとは感じる。今のように社会の一員から外れてしまっているようにはならず、派遣社員で、どう動いても救いようがない状態になる可能性は限りなく抑えられたのだろうかと思うことは幾度とある。

もっと自分に自信を持てたかもしれない、もっと自分の可能性を見出せたかもしれない。

そこまで考えれば私も「親ガチャ」は失敗だろうし、今もそう思う。

でも恵まれているのに親ガチャが失敗したという若者は、少しナンセンスである。自分の立場を理解できていない可能性が高い。

学生時代は同質性の高い組織なため、少しの異質は目立ってしまう。

だから自分が少しでも違うことに忌避と親ガチャ失敗が色濃く感じるのは理解できる。

しかし、社会に出ると自分が思ったより幸せで、自分の苦しみが通じないことが多々出てくる。

恵まれていなかったということで“人間性”などが???な人もいる。逆に恵まれているからこそ“他者の気持ちが分からない“という残念な場合も往々にしてある。

たくさんの人に出会っていくと、何をもって「親ガチャ」と考えるのは分からなくなると思う。そうなると自分自身は、一体どの家庭と比較しているのかを考えられると違った視点になるのかもしれない。

まぁ、こんな深く考えず「自分の上手くいかなさ」の原因の一つが両親である。それをマイルドに言ったのが「親ガチャ」ならばよくわかる。

でも、親の責任だけでなく、社会の責任というものもある。
だから「親ガチャ」論争は難しいのかもしれない。


と、なんだか親の肩を持つような感じなってしまったが、本当に親の問題であること、親が自分自身のことだけを考えてきた人もいるだろう。

適切な適当なものを学ばなかった、社会資源を手に入れる努力をしなかったことが子どもに大きな影響を与えていることはある。

子どもは親の教育や環境整備で大きく人生が変わる。だから、ただ世間体のため、ただ欲しいからという理由だけで子を生すのは違う。

今、多くの人がコロナ禍によって苦しんでいる
足元の生活さえままならない子どもも親も増加してしまった。

こうした「親ガチャ」論争から様々な問題を考えていき社会の本質や正しさを考えていかなければならないと思う、

親ガチャということを考えるだけの思考力を失いつつある自分が苦しいが
早く・・・仕事を辞めないとな・・・




夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。