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自殺報道はエンターテインメント・SOSはノイズの世界で



死が取り上げられるほど

日常世界に対する疑問と周囲の恵まれた人々に対する違和感が増してくる。

自殺報道は「エンターテイメント化」する一方で、今苦しむ人々に対しては「ノイズ」として葬り去る。この世の残酷さには、ついていけなくなる。

もちろん、私自身が希死感を持っているからこそなのかもしれない。

希死感と言っても、「他殺や病気など」の外側から与えられる影響では死にたくない。あくまでも、「私」が「私」に対して決断を下して実行させる死のみに対してである。

なぜなら、人々や環境によって死への渇望を得ることになったのに、それを外的なものに死を望むという本末転倒なことはできない。

そもそも、死は本当に苦しくて息が出来なくなるほどのときだけでなく、「つー」というような日常のなかでも沸いてくるものである。もちろん、日常の中に現れる願望なわけであるから、必ず原因や実行へのきっかけは存在する。

それは本人だけしか分からない。本人以外の人にも分かることはあるが、それは全て事後報告的なものである(生きている場合でも)。

そして、そもそも根本的な要因に対して、本人以外で誰一人向き合うことはないだろう。

何かと理由を付けて、SOSや思いを潰してきたことを思い出す必要がある。しかし、それさえ覚えていなかったり、相手の問題にしてしまう図々しさには賞賛を送りたくなる。

もちろんそれは殺人幇助や殺人と同レベルと言ってもいいだろう。知りながら無視し追い込んでいるわけだから。

芸能人とか知名度の高い人の死は、かなりショッキングであって、心身に影響を受けてしまう人も多い。その時だけは、自殺などに対する問題やしんどさの問題に向き合うけれど、近くの人のしんどさや自殺願望を抱くほどの苦しみに対しては、無頓着どころか追い込む人が多数いる。

苦しむ人が「助けて!!」とのSOSを出していても、遠くから嘲笑い放置する恵まれた人々。

結局、自殺という深刻な問題も恵まれた人々にとっては、苦しむ人々が織り成す「エンターテインメント」の1つなのだと思う。

有名な人々の死も、身近な人々の死も

SOSを見て見ぬふりをした、根性論や努力論という自己責任思想に飲まれ、利益にならない人々は救いませんという思想を持つ人(無意識の者も含めて)にとっては、死を関心を寄せることができる1つの娯楽になっていると感じる。

その後、あっという間に忘れてしまうのだから。近くの人が同じような問題に直面しても「自分の人生なんだから自分で解決しなきゃ!」なんていうことを言えるほどであるし。

挙句、私、僕には関係ない。助けて欲しいなら”最大級の利益と永久の服従”をくれませんかね?笑

という暗黙の圧力をかけてくる無意識の殺人行為とも言える。

そうなれば、死へと駆られる人や悩む人々などは、自己解決するしかなくなり、死を選ぶか戦うかという極端な選択肢しかできなくなってしまう。中庸な選択肢というのは、それなりに落ち着いた状況でないと難しい。

「何もできることがない」「誰かに繋ぐことはできない」「話を聞くだけなら」「とりあえず1人で落ち着くまで」などの言動や行動が、どれだけ深刻な状況にしているのか…ということに目を向ける時なのではないだろうか。

連絡をして、会って、できることを話し合い、周りに協力を仰いだり、人脈を辿ってできることを繋げたり、その人を放置しないようにする。

そういうことが本来なされるべきなのに、己の利益に囚われた人々によって諦めざるを得なくなるんだよね。

もちろん、そのような力を持っていない人もいる。大抵そういう人は、何もできることは〜などは言わないが。その時は、日常的な会話や多少しつこくても味方であるという表面や連絡でもいいと思う。

シグナルを出せる人ならまだしても、出せない或いは出しずらい見えずらい人は、より無力感のなかで選択をしなければならなくなる。

この問題は、経験者でないと分からないと同時に批判的にならざるを得ないから伝わらない。

「お前が助けてもらえないからっていうなやww」

という人もいるだろうが、そりゃそうだよ。助けて欲しいさ。でもそれが難しいからこそ、発信するしかないと自分は考える。

死んだらもっともこうもないというのは、その人の状況をしっかり見えていないことの現れである。そして、遠くの人の死に対しては深刻に、近くの人の自殺願望や苦しみには圧力や無視などをする人は、相反する思考や行動に対して問題意識を持たなくてはならない。


色々な問題が起こっている昨今、恵まれた人であっても関係ない。確かにそれは事実であっても、自らの利益を独占し、追い詰められ人々をより追い詰めけしかけて、偽善的な行為にあぐらをかいて嘲笑う恵まれた人々には適応されるべきではないと思う。

助けて欲しいと声を上げて、それを訴えても放置している人々は、自らが追い込んでいる事実に目を向けるべきだと思う。誰かが選択をするたびに、自分は果たして加担していないか、SOSを無視してないか、出来るかぎりのことをしているのかということを今一度考えて欲しい。

それでも恵まれた人々は、これからも自殺報道や自殺はエンターテインメントとして認識し、近くの人々のSOSをノイズとしてしか認識しないだろう。

その時に、死へと駆られた人々はどうすればいいのか。どうすればいいのだろう。

エンターテインメントに埋もれ、SOSの声はノイズへと葬り去る社会。よく見てみれば、放置と偽善のオンパレードであった時には

一体、僕らは何をすればいいのだろう。

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