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◆読書日記.《スラヴォイ・ジジェク『信じるということ』》


<概要>
われわれが信じていることは、無神論的で世俗的とされるが、それが、インターネットと消費社会とニューエイジの神秘思想と出会うとどうなるか。評判高い哲学者にして文化批評家のスラヴォイ・ジジェクは、その議論の的となる、才気あふれるこの新著で、いくらポストモダンが信じていることは無根拠だと言っても、われわれはみな、ひそかに信じていることを示す。
――――――――――――――――――――――――――――――
「電脳理性」から「西洋仏教」まで、『信じるということ』は、われわれの日常経験の構造を与える、しばしば無意識に信じていることの輪郭をたどる。ジジェクはあらゆる対象を取り上げ、これらの経験がすべて、われわれが思っているよりも宗教的な信仰に近いと論じる。『信じるということ』は、人はネットワークにつながって自分の身体を離れてしまうどころか、新しい身体を探しているだけなのであり、スーパーや人生論雑誌や「自己啓発」グループで売られているアジア的精神世界の西洋版は、世界資本主義から隔たるのではなく、それに対するうってつけのイデオロギーの補足であることを明らかにする。
――――――――――――――――――――――――――――――
『信じるということ』は、現実・仮想を問わず、これらの経験の根底に、神を求めて人間を完成させようとする、非キリスト教的な、無益な試みがあることを示す。ジジェクは、映画、精神分析、カルチュラル・スタディーズ、哲学、宗教に依拠し、信仰とは実は、不完全に関するものだという、キリスト教の知られざる思想への回帰を訴える。
――――――――――――――――――――――――――――――
『信じるということ』は、これまでのジジェクの本を読んできた人々だけでなく、われわれがポストモンダンと言われる時代において、いかにして何かを信じつづけるかに関心のある人の必読書である。

(本書・袖の内容紹介より引用)

<著者略歴>
スラヴォイ・ジジェクは、スロヴェニアのルブリヤナ大学社会研究所の上級研究員。著書に『厄介なサブジェクト』(未邦訳)、『快楽の感染』(青土社)、『イデオロギーの崇高な対象』(河出書房新社)、『汝の症候を楽しめ』(筑摩書房)などがある。

(本書・袖の内容紹介より引用)

<2024年10月7日>

《本書の概要と総括》

 スラヴォイ・ジジェク『信じるということ』読了。

スラヴォイ・ジジェク『信じるということ』(産業図書)

 ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の精読がひと段落ついたので、ここで好きな本を一冊読んでおこうと考えていたのだが、正直今まで読んできたジジェクの著作の中でもとりわけ難解であった。自分としては、半分も理解できたかどうか自信はない。

 ジジェクの著作が分かりにくいのは幾つか理由があって、一つは前回『戦時から目覚めよ』(NHK出版新書)の記事でも説明した様に、彼自身が認めているように強迫神経症的に、怒涛の様に次から次に喋り通して相手を圧倒するような語り口があるからでもある。

 ジジェクは一つの議論について、いつまでも丁寧に解説を続けない。

 一つ終わったらまた次へ、こっちも説明して、それからあれもこれも説明しなければ……というせわしない説明をする傾向があるのだ。

 一つの議論を深めるため、ジジェクはお得意のラカン思想とフロイト、マルクス、ヘーゲルだけで説明するのではない。
 同じくラカン派のジャック=アラン・ミレールを引用し、ハイデガーやニーチェ、カント、キルケゴール、フーコー、アドルノ、ハーバーマス、ベルナール・バースという広範な思想家の専門用語や知識に、せかせかと性急に接続していく。
 そして、それら一つ一つにはいつまでも言及しない。

 それだけでなく本書のテーマとしてキリスト教とユダヤ教の知識を参照し、ユダヤ系哲学者オットー・ヴァイニンガーに触れ、アラン・チューリングに言及し、動物行動学のローレンツまで持ち出してくるとなると、さすがに多少の知識ではついていけない。

 これが理由の二つめ、利用される知識の幅が広範すぎるのだ。

 特にジジェクの著作を読む際には、最低限ジャック・ラカンの基本知識くらいは知っておかないと、理解できない文章も多い。
 特に「大文字の他者」「対象a」「<現実界><想像界><象徴界>」といったジジェクお気に入りのラカン用語は、ほぼ一切の説明なしに使われるし、カント、ヘーゲル、マルクスあたりならば、その専門用語も説明なしに使われる事も多いので、哲学初心者などは議論に置いていかれる事も多いだろう。

 その上、専門知識だけではなく、小説からはミシェル・ウェルベックの『素粒子』、ウラジーミル・ソローキン『ノルマ』、カフカ『審判』、映画からは『マトリックス』『ヒドゥン』『エイリアン』『マスク』『ライアー・ライアー』『ボー・ジェスト』『ブラス!』『殺人狂時代』といった多くのポップ・カルチャーを引用してくるのもジジェクの特徴だ。
 こういった高度な議論について、われわれの日常に馴染みのある大衆文化を引用して説明してくれる所にも、ジジェクの面白味がある。映画や小説を引用するのが、逆に高度な哲学の理論を用いた各作品の批評にもなっているという所に、ジジェクが難解ながらも人気がある理由の一つになっているのだろうと思う。

 以上のように、本書ではあらゆる知識が入り混じって、もはや混沌とした印象さえ受けるような煩雑さとなっている。
 恐らく多くの読者は途中で理路を見失い「この人の議論はいったいどこに行っているのだろう?」と迷い、一つ一つの議論については魅惑的な部分も多いのにも関わらず、最終的な結論がどこにあったのかさえ分からない人も多かっただろうと予想される。安心してほしい、ぼくもその内の一人だ。

 ただ、ジジェクの本書の結論の一つは「序論」と本書の結末を見れば書いてある。
 端的に「レーニンへの回帰」である。

 ――ちなみに、この「レーニンへの回帰」は後年『迫りくる革命――レーニンを繰り返す』で再度詳しく論じられる事となる。

スラヴォイ・ジジェク『迫りくる革命――レーニンを繰り返す』(岩波書店)

 この辺のジジェクの主張は、この当時(2001年当時)から変わっていないようだ。いや、この当時のほうが今よりも若干挑発的な部分はあるかもしれない。

 ジジェクは、巨大になりすぎたグローバル資本主義社会が急速に地球の資源を食い荒らし、それによって様々な「人類滅亡のシナリオ」を生み出して行っている現状を考えると、リベラルの「緩やかな改善」にいつまでも期待している猶予はない(本書の言葉を借りるならばジジェクは、「過激な」政治的方策が必要になると無責任にも逃げ出すようなリベラルのヌルい行動を批判している)――よって、現在の世界的状況への「レーニン的な急進的介入」が必要だ、と唱えるわけである。

 本書では様々な「信じるとは何か」という議論に言及するが、仮想現実やラカン思想、政治思想、神学など大きな迂回を経て、最終的にまた「序論」に書かれた「レーニンへの回帰」に戻ってくる。
「キリスト教的な身振り」を見習って、レーニン的な身振りを反復するという方法がある、というわけだ。

 このようなジジェクの「急進派左翼」としてのスタンスは、ぼくはいつも通り全く賛成できないのだが、中間の「信じるということ」についてのラカン理論の応用編については、汎用性の高い議論が多くて面白い。

 と言う事で本稿では以下、本書の本筋に沿って言及していくのではなく、中間の煩雑な議論の中から、特にぼくが興味を惹かれた理論に的を絞って書かせて頂こうと思う。

<付記:10月9日>
 上の記事を書いた後になってふと気づいたのだが、上に書いた「あらゆる知識が入り混じって、もはや混沌とした印象さえ受けるような煩雑さとなっている」という印象は、本書だけでなくジジェクの他の著書でもしばしば見られる特徴であった。

 これはもしかして、ジジェク自身が認めている「神経症的な、せわしない身振り」というだけでないクセ(無意識のクセ)なのか、あるいは意識的な書き方なのか、どちらかではないか……と思ったわけだ。

 ジジェクは自分の「神経症的な喋り方」を次の様に説明している。

 物事は常に変化しているが、これは真に重要なものが何ひとつ変わらぬようにするためである。その意味では、私のような強迫神経症の人間に少し似ているかもしれない。要するに、身振り手振りを交えてしゃべり続けるのは、何かを達成するためというより、一瞬でも口をつぐめば他人が自分の行動の無用さに気づき、本当の意味で重要な疑問を投げかけてくるのではないかと恐れているからなのだ。

スラヴォイ・ジジェク『戦時から目覚めよ』より引用

 ジジェクが身振り手振りを加えてせわしなくしゃべるのは、相手が「本当の意味で重要な疑問を投げかけてくるのではないかと恐れているから」という、裏の自己防衛心理がある。

 もう一つの証言。ジジェクは自著『人権と国家』に収録されている岡崎玲子とのインタビューで「それにしても、私はしゃべりすぎて混乱するのですが、当然、編集するのですよね? 言いたいことを私よりもよくわかっているようですから(P.189)」などと飄々と言っているのだが、――これを聞くと彼は「長期的な計画(起承転結や結論など)をたててしゃべっている」のではなく、もしかして「一瞬でも口をつぐまないように」思いついた順にしゃべっているのではないか?そういうクセがあるのではないのか?という疑問が生じてくるのである。

 要は、ジジェクにとって本当に重要なのは「結論」などではなく、その途中の「瑣末な議論」こそが本当に重要な部分なのである……という、これは彼お得意の逆説的な「語り/騙り」なのではなかろうか?

 そう解釈すると、本書のラストに急にレーニンの話に戻ってきた、あの若干とってつけた風にさえ思える結末にしていたのは、普通だったら誰もが重要だと考える「序論と結末」という部分ではなく、その中間にある議論の中にこそ本当に重要な議論を隠し持っていたからではないか?……などと思ってしまうのである。

 ジジェクの――意識的なのか無意識的なのかは分からないが――これも自己防衛心理的な身振りとして「本当の意味で重要な疑問」を投げかけられないよう、彼の思う「重要な部分」は、さりげなく中間部分に隠し持っていたのかもしれない……そういう戦略が彼の著者の、あのいささか煩雑に思える書き方に反映されているのではないだろうか。

《ヘーゲル用語「反射規定」とは?》

 本書に何度か出てくるヘーゲル用語「反射規定」という概念は非常に面白い考え方なのだが、ジジェクの説明はそっけなくて恐らく本文だけを読んでも良く分からないだろう。

 本書の訳者もいちおうは「訳者あとがき」でこの概念を改めて説明してくれている。

 これはひとまず、「鏡に映ったのを見てはじめて、映すべきものがあることがわかる」というような含みと考えておこう。あたかもゼロをわざわざ-Xと+Xに分解することによって(量子ゆらぎの中に、あたかもゼロを分解したかのようにひょっこり浮かぶ仮想粒子の対は、ジジェクお気に入りの喩えだ)、+Xと-Xが元々あったことになるような仕組みと言ってもいいだろう。+Xに気づくには、その影(あるいは対立物)である-Xが必要となる。あるいはもっと言えば、むしろ明瞭に見えている-Xの方が実体化され、それが信じられるようになる。念を押しておくと、本当にあるのは-Xではなく、実は+Xの方だということではない。本物は+Xの方だと思われているが、実は+Xの方も-Xを前提にしているということだ。-Xはしょせん幻だからと言ってそれを消してしまうと、+Xのほうも成り立たなくなるという構造、本来は何もないゼロからの対生成、何もないなめらかなところに、でこぼこのひっかかりとつけてとらえるような仕組みが、反射規定と呼ばれ、それが人間の世界とのつきあい方の根幹とされる。

本書P.182-183より引用

 この訳者の解説でも、踏み込み過ぎていて少々分かりにくいかもしれない。

 もっと単純化して言えば、例えば「父」というのは、その男性に「子」がいるからこそ「父」というものがいるわけで、「子」がいない男性は単なる「一般男性」でしかない。
 人は生まれながらに「父」という属性を与えらているわけではなく、その対立物の発生によって「父」というものが規定されるのである。

「男と女」という規定も同じだろう。
「男らしら」や「男というもの」とは、「女」がいるから規定される基準で、「女」という対立物がなければ「男らしさ」などというものはなく、単なる「人間一般」でしかない。

 自らの「反対のもの」によって、自らが規定されるわけである。「反対」の対立物によって、自らも「規定」されるというこの特徴を称してヘーゲルは「反射規定」と言ったわけである。

 ヘーゲルの「反射規定」は、別の呼び名を「対立物の相互浸透の法則」というそうだ。

 自分に対する「対立物」がなければ、それに関わる概念もアイデンティティも認識も生まれない。
 その「対立するもの」によって自分の位置が決まり、相手が変化すれば自らの変化も不可避的に起こってしまうというものだ。

 物事の価値が常に相対的なのは、そういう事情も含まれているからだろう。

 上に引用した訳者の解説の中の「鏡に映ったものを見てはじめて、映すべきものがあることがわかる」というものもそれと同じで、「自分の価値」というものが常に相対的なのは、「自分」に対して常に「他者」という対立物が存在するからであろう。

 例えば、自分が美人か不美人か、という価値も対立物である「他者」がいなければそもそもの「美人」というものの価値が規定できない。
「映すべきもの」――鏡、水の水面、硝子、他人の意見など――がなければ<自分は美しいか否か>という評価自体が現れようがない。

「美しい/美しくない」という価値判断は「客観的事実」でもなければ、「論理的判断による結論」でもない。文化的、時代的、環境的な条件で幾らでもブレる相対的価値である。
 つまり、元々そんなものはないのだ。上の引用文中にある「本来は何もないゼロからの対生成」というのは、そういう事である。

 斯様に、人は認識が広がれば広がるほど「ゼロ」に何かを見出して行ってしまうのである。

 人々が誰かを王として遇するのは、その人が王だからではないと言ったのは、パスカルだった――この人が王に見えるのは、人々がその人を王として遇するからだというのだ。

本書P.18より引用

 権威とそれに服従する者の心理も、「反射規定」の応用だとジジェクは指摘しているわけである。支配者が人々に支持されるのは、それがじじつ「偉い」からではない、人々が支配者に対して従属的な態度を採ってしまうからだ、と。
 権威というものは、もともと「ゼロ」に大衆が何かを見出しているものだ。

《ラットが「人間化」するとどうなる?という実験》

 本書によれば、ジャック=アラン・ミレールがある面白い実験を紹介しているという。

 ラット用の迷路に、ラットが最も欲しがる物を置く。ラットにはそこへ行く道を良く学習させておく。

 次段階では「最も欲しい物」はラットから見える位置にあるが、そこには絶対に行けない迷路にする。その代わり、その迷路でラットの行ける場所には「それより価値は落ちるが、ラットが欲しがる物」を置いておく。

 果たしてラットは、どちらに行くのか?

――ラットはすぐに妥協し、「価値は落ちるが欲しい物」を入手するという"合理的"な行動をとるのだそうだ。

 そして、実験はまた次段階へ進む。

 今度は、同じラットの「ある本能を司る脳の部位」を切除するのだそうだ。
 そしてラットを先ほどと同じ「最も欲しい物」は見えるが絶対に手に入らない場所にある迷路へと放つ。――ラットの行動はどう変わるのか?

 今度ラットは「価値は落ちるが欲しい物」を無視して「最も欲しい物」にこだわるのだという。

 ラットは「最も欲しい物」を失う事に折り合いがつけられず、「価値は落ちるが欲しい物」には見向きもしないで、何度も何度も諦めずに「最も欲しい物」を得ようとチャレンジを繰り返すのだそうだ。

 この、ある意味ラットの「人間っぽい行動」は何によって引き起こされるか?……要は「本能の部分を切除される事」によってであった。

 このラットの実験は、まさにラカンが言っていた「人間は本能の壊れた動物」だという指摘をそのまま表している。

 ラカンは人間の「欲」を「欲求」と「欲望」という二種類に分類している。

「欲求」は本能の欲で、生物が生まれながらに持ち合わせていて、欲求が満たされれば治まるものである。
 例えば食欲、性欲、排泄欲、睡眠欲などといった本能的な欲求である。

 それに対して「欲望」は、人間特有の欲で、後天的に学習して身につけられる欲であると言えるだろう。その手の欲望は満たされても、なお次を求めて治まる事がないというものである。

「欲求」である「食欲」は、飢えれば自然に湧き出てきた、食べ物を食べれば満たされ、そこで治まるものだ。

 だが、人間は本能たる「食欲」が壊れ、「欲望」たる「グルメ」に変化しているのである。人は腹を満たしても「今度はもっと美味しいものが食べたい」「中華料理もいいな」「いま流行のスイーツが食べたい」と次々と欲が湧いてくる。

「食欲」は「グルメ」へ、寒さをしのぐ「衣服」は「ファッション」へ、子供を産む生殖活動である「性欲」は「ポルノ」へ。

 人間的な「欲望」は「究極の満足」へ至る事は絶対になく、果てしない「究極の目標」という空虚な中心を巡って周囲をグルグル回る事となる――これがラカンの見出した人間的欲望であった。

 この人間的欲望はある種「人間はゼロに<強い何か>を見出してしまう」というジジェクの主張の一つとなっている。
 現代で言えば「仮想現実」がそれにあたるし、伝統的な話で言えば宗教などもこの範疇に入るのだろう。

 本能を壊されたラットが、目標に向かって決して諦める事なく幾度もチャレンジする「人間化」をしたように、人間を果てなき革新へと駆り立てる欲望が、この人間的な「執着」であった。
 この「執着」が巨大に組織化され、世界を覆い尽くすようになった姿が、現代のグローバル資本主義だったのだ。

 人は結局のところ、何かのトラウマを残す<物>への過剰な執着を通じて、逸脱する生活をする動物なのだ。

本書P.108より引用

 この話題は、ラカンだけでなくマルクスをも巻き込む。
 言ってしまえば、資本主義という社会体は、人間の本能をより「壊れさせる」ものなのではないのだろうか。精神分析が資本主義批判に接続するわけだ。

 そう言えばラカンの「余剰の享楽」というテーマも、マルクス的な「余剰価値」を参考にしているのだそうだ。確かに、いかにも「ラカン派マルクス主義」を標榜するジジェクらしいテーマである。

《貴方はサンタさんを信じていた?》

「信じる」とは何なのか?

「信じる」という行為には、単に純粋な感情だけでなく、しばしばその心理に複雑に屈折した「裏」がある。

 恐らくジジェクが他の著書で言っていた事だと思うのだが……人は「神をいると確信した」から「信仰する」のではなく、すでに神を「信じた」からこそ「神がいてくれなくては困る」と後付けで確信してしまう……という心理があるのではないか?という説がある。

「信仰」というテーマとなると、ぼくはしばしばこの言葉を思い出すのである。

――無神論者の皆さまがたも、まだサンタ・クロースを信じていた頃を思い出してみよう。
 サンタの実在は確実だったか? そうではなく「サンタを信じているから、それがいてくれないと困る」とは思っていなかっただろうか?

 子供は、サンタさんのプレゼントによって、二重の恩恵を与えられると言えるだろう。

 一つは、自分の欲しいものをプレゼントされるという恩恵。

 もう一つは、サンタさんからプレゼントされる事によって「自分が"いい子"だったからこそ、サンタさんはプレゼントをくれた」――つまり、自分が選民的な「いい子」である証明が与えられたという恩恵。

――ぼくが幼稚園の頃の、数少ない思い出の中に「サンタさんはいるかいないか論争」があった。
 いささか冷めた性格のガキだったぼくは、幼稚園児たちが二派に分かれて争うさまを傍から見てイヤぁ~な気分になっていたものだ。

「サンタさんはいない派」の幼稚園児らは、サンタさんの正体はお父さんなんだよ、そんなのに騙されているなんてバカだな子だな……と相手を馬鹿にする。
「サンタさんはいる派」の幼稚園児らは、サンタさんはいる、じじつプレゼントは与えられたわけだし、その姿を見た子もいるんだ……と、相手を「自分らの様に"いい子"ではない連中だ」と暗に見下している。
……などという見方をしていたものだった(笑)。

「信じる」という心理の裏に隠されている事とは、それが嘘だった場合、自分の今までの幸福や自らのアイデンティティや、一生懸命それに捧げた行動の全てがムダだったという事になってしまうという恐怖が存在するという事であろう。幻が一気にゼロに戻ってしまう。

 信仰者が熱心な信仰活動を行えば行うほど熱狂的になっていくのは、きっと「信じる」という行為そのものが、それが裏切られた時に大きな代償が待ち受けているという恐怖の裏返しからの、「そうであってくれないと困る」という脅迫的な心理があるのではなかろうか。

――ちなみにぼくは、「サンタさんはいる派」だった子供の頃に、両親からサンタさんを信じている事を手ひどくバカにされてから「サンタさんはいない派」に転向した、冷めたガキであった。

《「犠牲」の概念から「神」が生まれるとき》

「信じる」という行為には、単に純粋な感情だけでなく、複雑に屈折した心理的な「裏」がある。

 そういう、表面上には現れない潜在意識的な「裏」を提示してみせる所に、ラカンやジジェクの理論の面白さがある。

 信仰が厚いのは、信仰心が厚いからではなく「神がいなければ自分の空疎さに耐えられないから」でもある。

 ラカンは「犠牲」の概念について、その初歩的な所では「交換」に依拠していると指摘する。

 私は<他者>に自分にとって貴重なものを与え、私にとってさらに大事なものをその<他者>から返してもらうのだ(「原始的」部族は、神々が十分な雨や戦勝で報いてくれるよう、動物や、さらには人間を犠牲にする)。

本書P.73より引用

 原始的には、犠牲という考え方についての「交換」が成り立つという心理がある。
 そして、この犠牲概念がもっと発達して複雑化すると、ある種の「信仰」的な概念が現れてくるのである。

 次の、すでにもっと複雑になった水準では、犠牲を、それが向けられる<他者>との交換を狙う、直接に何かの利益を得るための身振りとは考えない。それは「外(アウトゼア)にわれわれの犠牲によるもてなしに答える(あるいは答えない)ことができる、何らかの<他者>がいると確信することだ。<他者>が私の願いを受け入れないとしても、今度はもしかすると、少なくとも別の答え方をしてくれるかもしれない<他者>がいることを確信することはできる。外の世界は、私にふりかかるかもしれないあらゆる災厄も含め、無意味な盲目的な機構ではなく、会話の成り立つ相手であり、したがって災厄さえも意味のある答えとして読めるのであり、盲目的な偶然の支配する国ではないのだ……。

本書P.73より引用

 このように「犠牲」概念はラカンによって「大文字の<他者>が無力であることの否定を演じる身振り」だと喝破される事となる。

 人間は無力で、災害や突然の悲劇というものは「無意味」なのだ。したがって、「人間」や「人生」などというものには意味がないのである……そういった「耐えがたい無意味さ」を否定する身振りとしての「犠牲」概念が、ある種の「外の国」を作り出す。

 つまり「信仰」は、神がいるから発生するのではなく、「いてくれないと困る(=自分の空虚さに耐えられない)からこそ信じる」という「裏の心理」が隠れているのである。

 この「信仰」概念の裏側にある心理と言うものは、何も宗教的なものばかりに該当する事ではなく、広く「信じるということ」に関わる心理であるからこそ、この指摘は「恐い」と言わざるを得ない。

 多くの「信じる」という行為には「そうであってくれないと困るから」という裏の理由が隠されているというわけだ。

 ぼくが思うに、このラカンが説明している「信じる」という感情は、「<中身>が空っぽだという事を隠す」といった心理作用も隠されているようだ。もともとの中身が「ゼロ」だという事を隠してしまう作用である。

 つまり、「ゼロ」でありながらも中身のあるものに見える「幻想の<中身>」を演出するための<神>であり、熱心な「信仰」という行為だと。
――例えばこれを現代日本に当てはめれば「アイドルの推し活」についても、似たような現象はあるだろう。

 良く冗談半分に「アイドルはウンコをしない」と言われるものの、それが表現しているのはアイドルが実際に持っている「生々しい人間としての属性」を、ファンが隠したがっているという心理の反映でもある。
――要は、ファンらが求めるアイドルなどという人物は虚構そのものであり、どこにもいないのである。

「アイドルはセックスをしない」「アイドルのグループ内には生々しい敵対関係や陰険なイジメは存在しない」「アイドルに恋人はいない」「アイドルはタバコもマリファナも嗜まない」……これらの「信仰」は、アイドルにおける<生々しい現実的なヒト>という属性を隠してしまう要素がある。
 そして、それが隠れていればいるほどアイドルはアイドルなのである。

 それは「実際にそうだから」ではなく「そうであってくれないと困るから」ではないのか? つまりアイドルというものは、アイドル本人とファンとが共同して作り上げる<幻の人物像>であり「実はそんな人物などどこにもいない」という中心の空疎さを隠蔽するために、ファンとアイドルが半ば共犯的に守ろうと努力する虚構像なのである。

 そこにファンの「アイドルを信じる心」というものが「本当に隠したいと思っていること」が存在している。
 アイドルは「いる」から、それを信仰するファン心理が発生するのではない。ファンの信仰心「あってくれないと困る」を満足させるために、後付け的に<アイドル>が発生するのである。

《ラカン「大文字の他者」とは?》

 上にも書いたが、ジジェクお気に入りのラカン概念に「大文字の他者」というのがある。

 この概念についてあまり単純化して説明すると「失われてしまう特徴がいろいろある(ジジェク『ラカンはこう読め!』より)」と言う。
 確かに、この概念を説明するのは難しい。ラカン思想をかなり順を追って説明しなければならなくなる。

 そもそも、あらゆる思想家の使っている専門用語と言うのは、その人の思想の文脈を無視して「用語解説」などで簡単にその用語単体の概要だけ把握しても、十全に理解した事にはならない。
 出来るかぎりその思想家の全体像を知った上でなければその言葉の位置づけが分からないだろう。

「ファスト教養」などと言って、ダイジェストで思想家の用語や思想を理解する事のダメさ、役に立たなさというのは、そういう所にあると思ったほうが良い。

――とは言え、「大文字の他者」を説明せずにジジェクやラカンを話題にしていても、まるでその思想のエッセンスは伝わらないだろうから、ここでは必要最低限に絞ってあえてダイジェスト解説をしておこう。

 ラカン思想の中でも<他者>というものは非常に重要な概念となってくる。

「大文字の他者」というのは、ラカン思想の「他者」の中でも<法>を司るものだと言われている。
<法>とは自分の無意識の中で自分のルールと化している基準を決めている部分の事だと思うと良いだろう。

 我々は多かれ少なかれ<国の法律>には従っているが、個人個人で従っている倫理の基準と言うのは千差万別ではないだろうか?

 倫理基準が「目下の人間なら多少は殴ってもいい」という人もいるだろうし、「店の人に見つからなければ万引きくらいはしてもOK」という人もいる。勿論、聖者のように他人への迷惑を厳しく禁止している人物もいるだろう。

 だが、そういった「正義感」や「ここまでなら他人に迷惑をかけてもいい/悪い」といったような<国からの禁止>ではない、個人個人が持っている微小な自分の中でのルール(=大文字の他者)の差異とは、いったい何に基づいているのか?

 ラカンは、人間は生まれると自分の中に「他者の語り」を取り込んで秩序化するものだと考えた。

 乳幼児は「大人が喋っている言語」を学んで、言葉を覚える。
 乳幼児にとってその時、自分の理解できない信号でコミュニケーションをとっている人間らを、自分とはまた違ったレベルの一つ高い<他者>だと思う。
 そのレベルの一つ高い<他者>(=大文字の他者)の喋っている信号(=言葉)を取り込んで、自分の精神に「自国語」という言語の構造を作り上げる。

 その時に取り込んだ中の「これをしちゃいけない」や「あれをしなさい」といった言葉の様々な部分が「無意識」という形で構造化したのが<法>としての<大文字の他者>である。

 だから、何を以て自分のルールとしているのか、というのは自分の育成環境いかんによって、その精神に導入されて行くというわけだ。
 だから<大文字の他者>というのは、第一に自分を育てた<母>だし、または<父>だったり<保母さん>や<乳母><祖父><牧師>や、あるいはテレビアナウンサーであったりヒーロー番組の主人公であったり「おかあさんといっしょ」のお兄さんだったりする場合もあるだろう。

 そういった育成環境の中で、言語(というよりかは、人間のやり取りするあらゆるコミュニケーションの信号=言語だけでなく身振り手振り、仕草、表情など)の情報によって植え付けられた「ルール=<法>」の、象徴的存在として<大文字の他者>というのがあるわけだ。

 だから<大文字の他者>は「神」と同一視される場合もある。

 ラカンの言う「無神論の真の公式は『神は死んだ』ではなく、『神は無意識的である』である(ラカン『精神分析の四基本概念』より)」とは、そういう意味も含まれているわけである。

 明確な権威としての<神>が死んだ現代、無神論者にとっての「神=<大文字の他者>」というのは、「なくなった」のではなく、無意識的になり「より見えにくくなっている」のである。

 無神論者は「神の存在は信じていない」からと言って「何も信じていない」というわけではない。

 信じているものが「より見えにくくなっている」からこそ、自分の「信仰しているもの」の真の対象に、彼らは無自覚だ。

 あるいは、その無自覚な「信仰しているもの」に、無慈悲にコントロールされてしまうという傾向もあるだろう。
 それは上に「アイドルの推し活」というジャンルの信仰について説明した通りだ。

 人間の「信仰」とは「神」だけ、「宗教的なもの」だけとは限らない。それは、本書を読んでも良く分かるだろう。

 例えば「真実の愛」であったり「崇高な理想」であったり「愛国心」であったり、またはジジェクが良く論じている「イデオロギー」であったりもする。

 こういうものは「信仰」という宗教的なイメージが「外されている」からこそ、宗教とはまた違った危うさを秘めていると思ったほうがいいだろう。
 これらの「信じるもの」は、上に説明した様に、「"ある"と確信するから信じる」のではなく、その裏に「あってくれないと困るから、熱狂的に信じてしまう」のだから。
――この公式に「真実の愛はある!」への信仰という項を当てはめてみれば、皆さまも良くお分かりになるではないだろうか。

《最後に》

――最後に、本書とは直接関係はないが、「信仰」というテーマとなると、ぼくはいつもチェスタトンのエピグラムを思い出すので、ひとつだけご紹介して終わりにしよう。

「教区で問題が起こるときというのはたいていの場合、聖ペテロが水の上を歩いたという奇跡を司祭が認めようとしないときであって、自分の親父がハイド・パークの池の上を歩いたと主張したからと言う例はめったに聞いたことがない。」――G・K・チェスタトン

 同じように、キリストが墓より蘇りたもうた事を信じるという人が「信心者」と呼ばれているというのならば、昨年死んだ近所のバアさんが先日墓より蘇りたもうたことを信ずる者は何と呼べばよいのか?


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