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◆読書日記.《スラヴォイ・ジジェク『戦時から目覚めよ』》

<2023年6月8日>

<概要>
人類の”大惨事”は避けられるか?
気候変動、生態系の破壊、食糧危機、世界大戦――人類の破滅を防ぐための時間がもう残されていないのだとしたら、我々は今何をなすべきなのか?パンデミックを経てますます注目される現代思想の奇才が、西欧と世界で今起きている事象の本質をえぐり、混迷と分断渦巻く世界の「可能性」を問う。

AMAZON・本書の内容紹介より引用

<編著者略歴>
スラヴォイ・ジジェク
1949年スロヴェニア生まれ。リュブリャナ大学社会学研究所教授。ラカン派精神分析の立場からヘーゲルの読み直し行い、マルクス主義のイデオロギー理論を刷新、全体主義などのイデオロギー現象の解明に寄与。また社会主義体制下のユーゴスラビアで反体制派知識人として民主化運動に加わり、指導的な役割を演じるなど現実的な問題に対しても積極的な発言を行っている。著書に『イデオロギーの崇高な対象』(河出文庫)、『ポストモダンの共産主義』(ちくま新書)、『性と頓挫する絶対』(青土社)、『パンデミック』『パンデミック2』(Pヴァイン)など多数。

本書・表紙袖の著者略歴より引用

 スラヴォイ・ジジェク『戦時から目覚めよ』読了。

スラヴォイ・ジジェク『戦時から目覚めよ』(NHK出版新書)

 ジジェクは「ラカン派マルキシスト」を自称するスロヴェニアの哲学者である。
 彼は難解なラカン派精神分析を利用し様々な社会問題についてマルクス主義的な立場から言及し、権力者らが裏側に隠しているイデオロギー的な欺瞞を批判する鮮やかな論調で一躍有名になった。

 ジジェクの面白さというのは、ラカン派精神分析の理論であらゆる社会問題の裏にあるものを暴き立てるだけでなく、彼が逆説的な理屈を多用して読者の常識を様々な角度で覆そうとする、その意表を突く論調の面白さにもある。
 物凄く表面的に言うならば、常識を揺さぶってくるチェスタトンのコラムを読むような刺戟的な読後感を得られる点にあるといえよう。

 ジャック・ラカンは「フロイトに帰れ」をモットーとしていながらも「当のフロイトさえも意識していなかったフロイト理論の革命的なその核心に回帰せよ」という、半ば詭弁めいたやり口で全く新しい精神分析理論を築き、フロイト理論の再活性化を計った。
 それと同じくジジェクの仕事の一つには、このラカンのやり方と同じ事を、マルクスやヘーゲルに適用して、それぞれの理論を再活性化させるというものがあった。

 これは良くも悪くもマルクスやヘーゲルを、「過剰に」再解釈する事で再活性化し、現代的にリニューアルする方法でもあるのではないかと思っている。

 例えばジジェクお得意の逆説も、ヘーゲルの弁証法の新解釈に基づいていると言えるだろう。
 ヘーゲルの弁証法を利用する際、ジジェクは「正(テーゼ)」と「反(アンチテーゼ)」をアウフヘーベンする……という通常の解釈は使わず、ヘーゲルが歴史的な発展が弁証法的な上昇運動によって起こってきた事を喝破できたのは、「重要な事は正/反の相反する事の中に逆説的な真実があったからだ」と見抜いていたからである……という風に解釈し、そういった逆説的な部分に真実があると注目するからでもある。

 ジジェクの著書というものには、こういった逆説的な理論を用いて読者の常識を覆していく知的な面白さというものがあるが、彼のスタンスは「急進左派」という部分があるので、基本的に読者に訴えているのは「変革」である、と言えるだろう。

 だからジジェクの著書は面白いし参考にはなるけれども、ぼくは彼の結論には全てにおいて賛成はできない。

 ただ、彼の提示してくる様々な逆説には、他の様々なものに転用して使う事の出来る汎用性があり、そういった所でも魅力を感じるのである。
 ぼくがジジェクの本を読み続けるのは、そういった部分を参考にしているという事もあるだろう。

◆◆◆

 本書はそんなジジェクが、昨今のヨーロッパ情勢を分析し、我々はどうしなければならないのか?という事を考える内容であると言えるだろう。

 そのためにメインはロシア-ウクライナ戦争について多く語っているが、それ以外にもLGBTQやグローバル資本主義、欧州の政治情勢、パンデミック、環境破壊などなどにも言及している。

 ジジェクは自分自身の事を「強迫神経症」だと言っているが、ジジェクがテレビ出演している動画などを見てみると、怒涛の様に喋り始めて身振り手振りを交えて確かに空間恐怖症的なせわしなさを感じる事がある。

 物事は常に変化しているが、これは真に重要なものが何ひとつ変わらぬようにするためである。その意味では、私のような強迫神経症の人間に少し似ているかもしれない。要するに、身振り手振りを交えてしゃべり続けるのは、何かを達成するためというより、一瞬でも口をつぐめば他人が自分の行動の無用さに気づき、本当の意味で重要な疑問を投げかけてくるのではないかと恐れているからなのだ。

本書P.227より引用

 このように自分でも言っているが、本書も彼の喋りと同じく怒涛の様に様々な話題が浮上して、ジジェクお得意のハリウッド映画やポップカルチャーや世界のジョークなどを交えてせわしなく話題が飛んでいく。

 これを真正面から受け止めていくと、普通の読者らの中には恐らく「一体この本では何をメインに主張したいんだ!?」という風に混乱してしまう者も少なくないのではないかと思わせられる。

 このせわしなさは、ジジェクが主張しているいつもの様々な理屈を、この一冊の中にぎゅうぎゅうと詰め込んでいるせいでもあるだろう。

 本書で言っている事は、今までジジェクがそれぞれの著書で言及して来た内容とほぼ変わりはない。いつもの理論を現状に合わせて少しずつアップデートしている、といった印象である。

 本書では何かしら全く新しい理屈を打ち立てている、というわけではないが、これは思想的に言っても別に悪い事だとは思わない。
 何かを訴え警鐘を鳴らす場合、「繰り返し」と言うのは割と大切だ。

 しかし、本書を「長編評論」という形式と受け取って一気に通読すると混乱の元になるかもしれない。
 そのためにぼくは本書を「短編論文集」という形で読んだ。実際、そのほうが本書は読みやすかったのでお勧めである。

 ぼくは以前の記事でご紹介した鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』を読んでいる間に本書を購入したので、『ウィトゲンシュタインはこう考えた』を読んでいる合間に、気分転換がてらにジジェクの本を一章一章読み始めたのである(『ウィトゲンシュタインはこう考えた』を読み終えるのに時間がかかってしまったのもそのせいかもしれない/笑)。

 一章一章別々のテーマを厚かった短編評論と見ると、一章ごとのテーマや言及内容は、意外にシンプルなものが多く、ジジェクの理路もわりとハッキリと分かってくる。
 そして、最終章の「結論」で、本書の総括らしきものを行って締めくくるのでそういう読み方をしたほうがより分かり易いと思える。

 という事で、本書については一章ごとにそれぞれコメントをつけていきたいぐらいには色々と書きたいテーマはあったのだが、本書は全部で14章もあるので端から言及していくと感想が膨大な分量になってしまう。

 なので、今回も本書を読んで特に書きたいと思ったテーマだけに絞って以下、つらつらと綴っていこうと思う。

◆◆◆

 いつものジジェクの語り口は、非常に挑発的なレトリックをよく使うのが特徴の一つと言えるが、本書の場合はそれと比べれば非常に率直という印象がある。

 本書の、特に前半に出てくる趣旨の一つは「地球規模の大破局から目を逸らしながら戦争に突き進むべきではない」に尽きるだろう。

 2019年から世界規模のパンデミックが発生し、今なお主要株を変異させながら感染者を拡大させつつある。
 黒死病が大流行した過去を振り返るまでもなく、世界的パンデミックは人類を衰退させるにじゅうぶんな要因だ。

 それだけではない。
 地球温暖化、水や食糧の不足による食材獲得競争、地球資源の枯渇、環境汚染、核汚染などなど。以前からジジェクは、グローバルな資本主義が発展すればするほど「人類滅亡のシナリオ」に、新たなメニューが加わっていく事を指摘していた。

 世界が一致して協力し、対処せねばならない地球規模の問題が複数発生している状況である事について、もはや世界各国の認識に差はさほどないはずだろう。
 つい最近も、2021年にグラスゴーで開催された大規模な気候変動会議にて「グラスゴー気候合意」が採択された事も記憶に新しい。

 こういった危機的な状況がありながら、ジジェクが本書で「戦争に突き進んでいる」と批判しているのは、現在ロシアが行っているウクライナへの軍事進攻の事である。
 本書ではヨーロッパ情勢についてをメインに採り上げているので、言及はロシア-ウクライナ戦争ほど多くはないが、勿論「地球規模の大破局から目を逸らしながら戦争に突き進んでいる国」として批判されているのはロシアだけではなく、イスラエルのガザ地区への軍事侵攻もこの内に入っている。
 これらの国々の軍事行為は、現在世界各国が協力しなければならない問題が複数ある状況にあって、それでも「自国の目の前の問題」のほうを過剰に重く見て「やむを得ず軍事介入する」といった形で行動に出ている……という建前で行っているのである。
 これらはいずれも「"平和維持"のための戦争」という逆説的な戦争なのである。

 この状況からぼくは、20世紀前半に良く書かれていた「幸せな宇宙人侵略ものSF」を思い浮かべてしまう。

「宇宙戦争」的なこの手のSFのある種の定型は、宇宙から襲来する侵略者に対して世界各国が「今は国同士で争っている場合ではない」と一致団結して宇宙からの侵略者に対応するのである。

 それに対してリアルな21世紀の状況は、地球規模の危機を前にして「危機的な情況の中で自国の優位が少しでも高くなるよう」より一層自国優先主義を強めてしまった。

 リアルな21世紀の国際情勢と言うのは、戯画的な未来SFよりも「より戯画的」に愚かで身勝手な行動をする為政者の存在する世界なのだ、という事である。
 われわれは、人類に対する脅威を目の前にして、わざわざやらなくてもいい争いを始めてしまうような生物なのである。

 こういった愚かな為政者らの行動を止めるのはシンプルだ。皮肉や逆張りで斜に構えるのではない、正論で真っ向から否定する事だ。

「侵略はやめろ」である。

 そもそもが軍事侵攻といった手段で政治的な問題を解決するといった行為は前時代的で、現在の国際秩序に沿った方法ではない。
 更に、状況は「それどころではない」わけである。問答無用で、戦争行為には「NO」を突き付けるべきだ。

 本書で非常にシンプルに打ち出されているテーゼ「地球規模の大破局から目を逸らしながら戦争に突き進むべきではない」は、日本にいるわれわれの事情に当てはめて考えるならば、似たような状況は幾らでも出てくる。
 そう、われわれはこの「ヨーロッパ情勢の危機的状況」を、遠い異国の事例などと軽く考えてはならないのだ。こういった問題は、昨今のパンデミックと同じように瞬く間にグローバル化する。

 思想的に考えるべきは、このジジェクの提言を、身近なわれわれの状況に当てはめて分析してみる事である。

 例えば「能登地震の被災者の救済を二の次にして大阪万博に金をつぎ込むべきではない」といったものだ。

 この問題はつまり、われわれは放置していれば確実に悪化していく状況にはなかなか手を付けないのに、そこではない全く別の「目の前の問題」のほうを過剰に重く見るという愚を行っていはいないか?という事である。

 日本の為政者は能登の被災者からもパンデミックからも目をそらし、福島の核汚染水からも目を逸らし続けているとは言えないか。

 最悪なのは、少子高齢化という、具体的に対策を考慮しなければ確実に悪化するに決まっている問題さえも目を逸らし続けているという点であろう。
 これはもう、半世紀以上前から自民党が目を逸らし続けている問題だ。遂に日本社会のそこかしこで問題が顕在化し始めたというのに、未だに抜本的な対応は見られない。

 ジジェクの本書のタイトルにもある「戦時から目覚めよ」の意味は、そういう所にあり、いま目の前にはないが、将来確実に我々の害になるであろう大規模な災害から目を逸らし続けるべきではないという事でもある。

 環境汚染の問題にしても、パンデミックにしても、食糧難の問題にしても、「具体的な大災害が発生した」時になってから「どうしよう」と対策を考えるのは、基本的に「手遅れ」なのである。

「今は戦争をしているような場合ではない」と気付いて、大災害が起こってしまう前に「戦時」から目覚めるべきなのだ。

 が、「近年の歴史上の出来事は、これとは正反対の事実、つまり「目覚めるのに適した時などない」ことを示しているようだ。われわれは先走って取り乱し、実体のないパニックを煽るか、手遅れになってからハッと気づく。そして、まだ手を打つ時間は残っていると自ら慰めるものの、突然、その時間がないことを悟るのだ。ここでも同じ疑問が湧く。なぜなのか?(P.10)」……という状況を、ジジェクは様々な事例を挙げて説明するのである。

 例えばジジェクはしばしばペーター・スローターダイクの「シニカル理論の古い定式」を紹介している。それは次のようなものだ。

「私は自分のやっていることを理解しているが、にもかかわらずそれをやっているのだ」

本書P.228より引用

 この不思議な心理には、われわれ日本人の中にも覚えがあると感じる人も多いのではないだろうか。
 いま世界は、夏休みが明日で終わりなのに宿題をしようとしない小学生のようなモードに入っているのではないか?

 スコットランドのグラスゴーで開催された大規模な気候変動会議を覚えている人も多いだろう。会議ではグローバルな協力体制と環境問題への対策が大至急必要とされていることが公に掲げられたが、この宣言は、実際にはまったくなんの効果も発揮しなかった。

本書P.239より引用

 本邦でも、このように大きな問題が根本的に治まったわけでもないという事が理解できないわけでもないのに、奇妙にその問題に対策をとろうとしない、という不思議な心理があちこちに見られる。

 例えば、われわれの政府は未だパンデミックが治まっているわけではないにもかかわらず、新型コロナウイルス感染症を5類感染症に移行し、行政的な対応を緩和した。
 とうとう、以前から求められていた病床の増設やPCR検査の拡大などといった行政的な対応を行う事なく、このパンデミックへの対策は縮小されてしまったのである。

 だが、新型コロナウイルスは政府の対応が「5類感染症に移行」しただけで、パンデミックが完全に治まったわけではない。いま現在、どの程度の感染状況なのか一般市民が知る必要はなくなったと本当に言えるのか?

 ぼくは今回のコロナ禍が発生した当初、このパンデミックによってどのように我々の生活が変化するのかと言う予想を、しばしば某SNSで呟いていた。

 例えば、大人数の社員を一つの拠点に集めて仕事をする環境が感染症のリスクに晒され、多くの仕事がリモートワークに移行するようになるならば、東京にオフィスを構えて通勤するというスタイルは必要とされなくなるのではないか? そもそも満員電車によって往復1時間も2時間もムダな時間を費やさなければならないのは労働者にとって非常に効率の悪い事ではなかったか……東京への一極集中が必然でなくなるならば、わざわざ家賃の高い東京に拠点を構えずとも、物価も家賃も安い地方へ拠点を移したほうがコストは下がるのではないか? 飲食店は早い時期に店に大容量空気清浄機や室内換気のシステムを導入し、感染に対応した店内の飲食スペースの清浄化に投資したほうが後々考えれば長く生き残れるのではないか? 外出時のマスク着用が必須になる社会というものは、もはや他人に素顔を晒す事は日常でなくなり、マスクをしない素顔の自分を晒すのはテレビの配信番組やネット会議やビデオ通話などに限られるのでは……つまり外では素顔を隠し、素顔を晒すのはネット会議やビデオ通話などプライベート・スペースの内だけという今までと逆転した文化が出来上がるのではないか?……などなどである。

 これらの予想は、ほとんどが外れた。

 が、そもそも今回の様な世界的なパンデミックという状況があったにも関わらず、何一つ変化がないという事など、ありえない。と、少なくとも、ぼくはそう考えている(負け惜しみではない/笑)。

 何かが、変わるし、何かが、既に変化しているのである。逆に「完全に元の状態に戻る」などと言う事のほうがありえない事態である。

 勿論、我々の生活環境が激変する、などといった事ではない。ちょっとした意識的な部分でも、それは起こっている。

 例えば、コロナ禍が発生してから後、「空気感染するウイルスが、空気中に存在している」という事を、全く意識しない人というのがいるのだろうか?
 今後、新たな感染症が発生した時の人々の反応と言うものにも、それらの影響は少なからず現れてくるだろう。

 ぼく予想した、上に挙げたような変化の数々が起こらなかったのは、人々がこの災害に対して「柔軟に対応して変化しよう」という意識を持たなかった、という事を意味しているのだろう。

 新型コロナウイルスの対応を政府が5類に移行してその後、テレビのニュースではしばしば「コロナ明け」や「コロナ後」等と言う表現が見られるようになったが、人々の中にこのパンデミックをきっかけに「変化しなければ」という意識は育たず、おそらく多くは「早く元の世界に戻ってほしい」といった意識にとらわれていたのだろうと思う。

 大災害を目の前にして抜本的な対策にいつまで経っても着手しないという心理の一つの形が、ここにも現れているのではないかとも思えるのである。けっきょく人々は、この災害に対して果敢に積極的に「変わろう」という意思を持たず、じっと我慢していれば元に戻ると踏んだのだ。

 われわれには、みずからの一部をなくす覚悟があるだろうか? 答えはもちろん、ノーだ。エイドリアン・ジョンストンの言葉をもう一度引用すると、「私たちは物事が崩壊しつつあるのはわかっている。何を修復すべきかもわかっている。時には、それをどうやって修復するか、というアイデアまである。それにもかかわらず、すでに被った損傷を修復するためにも、簡単に予測できる損傷を防ぐためにも、いつまでも何もしようとしない」。

本書P.254より引用

 抜本的に災害を防止するためには、自分の生活の一部を劇的に変化させなければならない、あるいは、自分の持っている権利の一部を手放さなければならないという「苦痛」を目の前にした時、人々は手早くそれに着手しようとするのではなく、「通り過ぎてくれるならば、早く通り過ぎてほしい」と考えてしまう心理があるのではないか。

 こういった心理をジジェクは、ジョージ・オーウェルの作品の文章のパロディという形式で、次の様に表現する。

 私たちはみな、地球温暖化とパンデミック反対を唱えるが、それを終わらせたいと心の底から望んでいる者はほとんどいない。ここで直面するひとつの重要な事実とは、すべての革命的な見解が、現状は絶対に変化しないというひそかな確信で部分的にしろ支えられていることなのである。一般大衆の生活を改善するという問題だけなら、まともな人の意見は一致している。しかし残念ながら地球温暖化とパンデミックはただ望むだけではなくならない。もっと正確に言えば、なくそうとすることは必要ではあるが、そこに含まれている問題を把握しないかぎり何の効果もないということだ。地球温暖化とパンデミックをなくすということは、みずからの一部をなくすことにほかならないという事実を覚悟しなければならない……彼および彼女自身、激しい変身をせまられ、ついには、本来の姿の名残をとどめることはできなくなるだろう。

本書P.253より引用

 ジジェクが基本的に読者に訴えかけている事は「変革」である、とぼくが冒頭で述べたのは、こういった考えがあるからだ。

 特に「ラカン派マルクス主義者」であるジジェクは、この問題の原因の一つとして、マルクスやレーニンが資本主義の欠点を暴き立てたように、現代のグローバル資本主義を批判するのである。

 つまり、地球温暖化や地球資源の枯渇や、環境汚染といった問題の多くは、そもそもグローバルな資本主義経済が垂れ流していた問題ではないか、という事である。
 西側の国々にとってさえ、自国の巨大企業のやっている事を否定して、資本主義というルールの変更を迫られている、となると果たしてその「痛み」に耐えられるかどうか。

 はっきり言えば、この事態は「絶望的」と言えるだろう。

 われわれは多くの場面で、ジジェクが言うように「手遅れになってからハッと気づく。そして、まだ手を打つ時間は残っていると自ら慰めるものの、突然、その時間がないことを悟る」という事を繰り返しているのではないか。

 われわれは、いつか変わらねばならない。しかも、その中には抜本的に、大きな変化を必要としているものも少なからず存在しているだろう。が、「いま」変わりたくは、ないのである……というのが、一般庶民の感覚ではないか?

 ただ、あらゆる事態は「がまんして、じっとしていれば解決する」というものではない。多くの庶民はその事を認識しているだろうが、「にもかかわらずそれをやっている」のである。

 ジジェクの提言は基本的に「大胆な変革に果敢に挑戦すべきだ」であるが、ぼくはその意見に全面的に賛成する事はできない。
 このジレンマは、そう簡単には脱する事ができなさそうに思える。

 だが、世界各国で起こっている為政者の問題(戦争についても、環境問題についても、そうだ)について、当事者らはその問題をじゅうぶん認識できており、「にもかかわらずそれをやっている」という状況は、看過されてはならない。
 ひとまず、この認識から始めるべきなのではないだろうか?

 まずは、ロシアの軍事進攻や、イスラエルのガザ侵攻といった戦争行為が、何ら正統性のない「詭弁」である事を、真正面から指摘して「侵略はやめろ」と声をあげるべきだ。そんな事をやっている余裕など、われわれにはないはずだ、と(ロシアやイスラエルの「詭弁」については、本書で詳しくジジェクが論じているので、ここではその点について説明しない)。

 そして、上でも言った事だが、われわれがジジェクの提言を思想的に活かすならば、まずはわれわれの国でも行われている「具体的に対策を考慮しなければ確実に悪化するに決まっている問題からも目を逸らしいる」という為政者の様々な問題に対して「NO」を突き付ける事から始めるべきなのではないだろうか。


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