イングマール・ベルイマン監督 『第七の封印』 : 難解ではない。人間を描いただけである。
映画評:イングマール・ベルイマン監督『第七の封印』(1957年・スウェーデン映画)
ベルイマンが「難解な作風の映画作家」だという印象だけは、私にもあった。そのような風聞を何度も耳にしていたからであろう。
私の場合、本作がベルイマン・デビューとなるわけなのだが、ベルイマンの「難解」というイメージの一端を担ったのが、他ならない本作『第七の封印』なのである。
私としては、ベルイマンを初めて見るのであれば、どうせなら、
(1)ベルイマンらしく「難解な作品」。
(2)代表作のなかで、比較的初期の作品。
(3)「キリスト教の教義・神学」に、わりと詳しい「無神論者」の私としては、キリスト教がらみの作品を、まず見てみたい。
という3点において選んだのが、本作であった。
で、結論としてどうであったかというと、映像的には、とてもスタイリッシュで美しかったし、ドラマの部分も「私好み」でとても面白かった。
一一要は「少しも難解ではなかった」のである。
本作が「難解」だとされる理由とは、まずひとつには「聖書からの引用」があり、それが、もともと「難解」で知られる「ヨハネの黙示録」(以下「黙示録」と略記)からのそれであったためだろう。
なお、言うまでもないことだが、引用されている文章が難解なのと、作品自体が難解なのとは、まったく別の話である。
「ヨハネの黙示録」は、「新約聖書」に含まれる文書(新約文書)のひとつだが、これは一種の「象徴詩・寓意詩」のようなもので、もともと明確な意図の取りにくい「比喩的な表現」を多用している作品なのだ。
ではなぜ、そんな意味の取りにくいものにしたのかと言えば、その明確な理由は、作者(ヨハネ教団)に聞かなければわからないことだが、一説には「キリスト教を迫害した、時の世俗権力を批判する(当てこする)意味が込められていた」からだ、とも言われる。
例えば、映画『オーメン』(1976年、リチャード・ドナー監督)で有名になった「666」というのは、「黙示録」に登場する「獣の数字」であり「悪魔」を意味するものだとされているのだが、これは、かの有名な「皇帝ネロ」を当てこすったもので、「666」だの「616」というのは、ネロの名を数字変換すればそれになる、といったような、「諸説」があるのだ。
したがって、いずれにしろ、「黙示録」に書かれていることが、何を意味するのか、その真相はわかってはいない。ただ、いろんな「解釈」があるだけだから、一般には「謎めいたもの」として、後世のいろんな物語に、演出的に引用されたりするのである。『ガメラ3 邪神覚醒』(1999年、金子修介監督)に聖書の引用があったのと同じように。
一方、この「黙示録」には、どういうことが書かれているのかというと、それは「悪魔と世俗の王たちによる軍勢」と「神の軍勢」との最終決戦の「物語」である。つまり、言葉だけはよく知られる「ハルマゲドン」を描いた「物語」なのだ。
SF作家平井和正の代表作たる『幻魔大戦』は、「光の戦士と闇の戦士の最終決戦」を描いた作品だったが、これの同名劇場用アニメ化作品(1999年、りん・たろう監督)のキャチフレーズが『ハルマゲドン接近、幻魔大戦』だったのも、この作品のモチーフが「黙示録」から採られたものだったからである。
そんなわけで、本作のタイトルである「第七の封印」というのも、「ハルマゲドン」が開始されるために、解く(解除する)必要のある「七つの封印」のうちの最後の封印のことを指しており、つまり本作のタイトルは、「第七の封印」が解かれた時、いよいよ恐怖の最終戦争がはじまり、世界の「終末」がおとずれる、ということを暗示したものなのだ。
本作『第七の封印』で描かれているのは、度重なる「十字軍」(キリスト教世界による、イスラム世界に対する征伐行)によって、キリスト教世界自体が疲弊荒廃し、そこへペストの大流行が重なったために、キリスト教世界の人々の間では、これは「終末到来の凶兆」ではないかと、そう恐れられたのである。
で、説明が不合理であるために、「難解」だと誤解されやすいキリスト教用語としては、前記の「ハルマゲドン」と、それとは別物の「最後の審判」がある。
この二つは、しばしば、曖昧に混同されるのだ。
「ハルマゲドン」と「最後の審判」は、まったく別物なのだが、どちらも「終末的ビジョン」であるために、この二つが混同されてしまう。だからこそ、論理的に考えると「訳がわからない」ということになってしまう。
つまり、このあたりのことは、合理的に理解できなくても当然なのであり、これは「わかり得るものだが、わかるのが難しい」という意味での「難解」ではない、のである。
「ハルマゲドン」と「最後の審判」について、もう少し詳しく説明しよう。
「ハルマゲドン」とは、前記のとおり『「悪魔と世俗の王たちによる軍勢」と「神の軍勢」との最終決戦』である。
一方の「最後の審判」とは、世の終わりに神が再臨して、生者も死者も含めて、すべての人の生前の行いについて、神の教えに従ったものであったか否かを「審判」し、天国行きと地獄行きにふり分ける、というもの。一一これが「最後の審判」である。
キリスト教で、長らく「火葬」が忌避され、「土葬」が当然だったのは、「火葬にして、遺体が失われてしまうと、最後の審判の日に、土の中から死者たちが起き上がって審判を受けることが、そもそも出来なくなってしまうから」である。
また、だからこそ「異端者」や「魔女」などは、復活できないように「火刑」に処されたのだ。
そんなわけで、「ハルマゲドン」と「最後の審判」は、まったくの別物であり、別々に語られた「無関係」なものなのである。
だが、どちらも「この世の終わりを描いたもの(終末的ビジョン)」だったから、どっちが正解なんだろうとか、両者はどういう関係になっているんだろうなどと、多くの人はよくわからないまま、何となく「どっちにしろ、恐ろしい」と恐れていたのである。
では、キリスト教の「正統教義」として、両者の関係はどうなっているのか?
正解は、「正解はわからない」である。
つまり、まったく別のものの「終末像」が2つあって、どちらも「聖書」に書かれていることなのだから、「どちらも正しい」ということになるのだ。だが、では「両者が、どういう関係になるのか」までは、わからない。
つまり、「神学」的に「諸説」はあるが、これが唯一の正解だというような解釈理解は、存在しない。
例えば、「ハルマゲドンと最後の審判の前後関係」などというものもわからない。
どっちが先に起こるのかという疑問に対する、正解はない。あったとしても、それは、「神」にはわかっていても、人間にはわからないものなのだ。
だから、神学者たちは、人間的な知恵を敬虔に絞って「いろいろと意見」を述べるのだけれど、それは所詮「人間の(浅)知恵」でしかなく、「神の意図」を十全に説明するものではあり得ない。そんなこと、できるわけがないのである。
つまり、「聖書」に書かれていることは、人間にとっては「明らかな矛盾(不合理)」であったとしても、そこには、人間の能力では理解できない(人智を超えた)「神の深いお考え(計画)」があるのだと、そう理解されることになる。
言い換えれば、キリスト教の教義においては、「聖書」に多々存在する「矛盾」は、合理的に説明されることはなく、矛盾と感じられるものも、その矛盾のままに受け入れる。一一これが、正しきキリスト者の態度だ、ということになっているのである。
また、だからこそ「正しい信仰」に、「神学」は必要ない。
ただ、「何でもあり」というわけにもいかないので、神学者は、人智の及ぶ範囲内において、それは正しい、それは間違い(異端)だと判断できるよう、日々、研究研鑽を重ねているのである。そんなものだからこそ、自分たちに都合の良い「党派理論(イデオロギー)」にしかなり得ないのだ。
例えば、「人智では理解不能な教義」の、他の例をひとつ挙げると、「イエス・キリストは、完全なる神にして、完全なる人である」という、「神人」の教義がある。これは、普通に考えれば「あり得ない話」だ。
どういうことかというと、「神」というのは「時空を超えた、全知全能の存在」である。つまり、「神」であるならば「全知全能」なのだが、「全知全能の人間」などというものが考えられるだろうか? 普通に考えれば、そんなものは「人間ではない」。したがって、「イエス・キリストは、完全なる神にして、完全なる人である」という「神人」の教義は、論理的に破綻した、あり得ない話(虚妄)でしかない、ということになる。
だが、キリスト教の立場としては、イエス・キリストは「神」でなければならず、その一方「イエスは受肉して(人間の体となって)、罪なき自分が処刑されることで、人々の罪を贖った」という「贖罪論」の立場から、イエスは「完全な人間」でなければならなかったのだ。
なぜなら「見かけ上は殺されても、本当は死なない」んだと、イエスがあらかじめ知っていて処刑されたのだとしたら、そんなものには「有り難みがない」からである。
したがって、イエスは、自分が復活することを知らなかったし、だからこそ十字架の上で「わが神わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?」と嘆きもしたのだ、ということにもなるのである。
そんなわけで、イエスは「完全なる神にした、完全なる人間」でなければならなかった。「神人」論とは、要は「辻褄合わせのこじつけ」だったのである。だから、論理的には無茶苦茶であり、合理的な理解など、しようのないものなのである。
しかしながら、この「あり得ない話」を信じられてこそ、「正しきキリスト信者」だということになっているために、「宗教」とはタチが悪く、ときに「不合理ゆえにわれ信ず」などという、トリッキーなレトリックまで駆使してみせたりもするのだ。
で、本作『第七の封印』の主人公である、十字軍の騎士であった貴族アントニウス・ブロックが悩み苦しむのが、まさにこうした「キリスト教的な矛盾」なのである。
上に書いたことのすべてが、本作『第七の封印』のなかで、アントニウスの口から発せられるというわけではない。
彼が実際に語るのは、
「どうして神は、こうした問いに、姿を現して、はっきりとした回答を与えて下さらないのか?」
といった、本質的な部分だけなのだが、彼が神に問いたいと思っていることどもは、この映画に描かれた「状況」からして、明らかなのである。
さて、あとの説明は、本作の「ストーリー」を紹介してからとしよう。
本作で注目すべきは、主人公アントニウスの「陰画」とでも呼ぶべき、その従者ヨンスの存在だ。
本編を見ればわかるとおり、彼はとても有能な人物なのだが、しかし、徹底した「無神論者」なのだ。
ヨンスは、神の存在など信じていないし、神を信じるのは「愚か者」だと思っている。
したがって、自分の主人であるアントニウスのことも、そうした意味では「愚か者」だと思っているのは明白だ。
だが、言うまでもなく、この時代は「階級社会」だから、家来が主人に向かって「神なんてものは存在しません。そんなものを信じ求めている貴方は、愚か者です」などとは、たとえ忠心に発するものだとしても、口にできるわけがない。
だから、ヨンスは同階級以下の者に対しては、しばしばそのような本音を語るが、主人であるアントニウスに、同じ言葉を突きつけることはしない。
ヨンスが、アントニウスに対して、こうした本音や批判を差し向けないのは、またひとつには、単に「階級的に不可能」というだけではなく、アントニウスが「良い人(善人)」だからであり、その点でヨンスは、主人を敬愛してもいるのである。
だから、その主人に対して「神なんて存在しない。そんなものを信じる貴方は愚かだ」なんて、残酷なことは言えないのである。どうせ、聞き入れてはもらえないというのも、主人の性格をよく知るヨンスには、よく分かっていたからだ。
どういうことかと言えば、主人であるアントニウスは、「十字軍」の経験を通じて、今はたしかに「神の存在への懐疑」までなら持っている。しかし、だからといって「存在しない」とは、どうしても考えられない。
なぜなら、作中でもアントニウスの口から語られているとおり「神が存在しないなら、人が生きている意味もない」ということになるからである。
だから、アントニウスは「神は存在する」ということだけは疑いえず、「神は存在する」というのを大前提として、「なぜ神は、お姿を現してはくださらぬ?」とか「なぜ神は、はっきりとお答えくださらぬ?」などと「不毛な問い」を繰り返し続けるのである。要は、そうして、私の「迷い」を晴らしてください、というだけの、これは「問い」と言うよりは、「懇願」でしかなかったのだ。
そんなわけで、ヨンスに言わせれば、主人アントニウスは「現実を直視する、勇気がないだけ」なのだ。
たしかに「神」が存在しなければ、「神の言葉」である「聖書」で語られた「人間存在の意味」や「人間の特権性」といったことは、すべて「根拠」を失ってしまう。
つまり、「聖書」に書かれていることは、「無根拠な戯言」、「人間都合の作り事」だとなってしまい、それまでキリスト教世界を支えていたロジックが、根本的に崩壊して、人間は「無意味な世界」で「無意味な生」を生きなくてはならなくなる。一一だから、そんな「大地が消失するような恐怖」など、とうてい受け入れがたい、というのが、当時は当たり前だったキリスト教信者たちの思いであり、アントニウスの思いでもあったのだ。
だが、かなりフィクション的に徹底した「無神論者」であるヨンスに言わせれば、アントニウスの言う「神がいなければ、この世は無意味だということになってしまうではないか?」という問いに対しては、ただ非情に、
「そうですよ。この世に意味なんてありません。この世は無意味に存在しているのです。私たちは、そんな無意味な世界の中で、自分なりに、生きる意味を見出して生きていくしかないんです。あらかじめ、生きる意味を保証してくれる存在なんて、存在しない。つまり、神は存在しないのです。だから、いくら求めたって、神は姿を見せて、貴方の問いに答えてくれたりもしません。そうした、神の沈黙に、神の深い意図などありません。また、神が不誠実なのでもありません。単に、神は存在しないから、応えようもない、というだけのことなのです」
と、心の中でそう言うしかなかったのである。
この「善人だが、弱い人」である主人アントニウスには、そうした過酷な「現実」を受け入れることはできないだろうと、リアリストであるヨンスは、そう見抜いてもいるから、あえてアントニウスを苦しめるような「真実」を、直接告げようとはしなかった。
ヨンスはヨンスなりに、この心優しい主人を、人として愛し、憐んでいたのである。
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ところで、本作が「難解」とされる理由のひとつは、「神」は姿を現さないのに、「死神」の方は、姿も現せば、よく喋るし、チェスまで差してみせるほど、その存在感を誇示してみせる、という点である。
つまり、「どうして、死神だけは、ハッキリと描かれるのだろう?」という疑問だ。
だが、これは「謎」でも「疑問」でもない。
「死神」がハッキリと描かれるのは、「神」とは違って、「死」は絶対確実に、存在するからである。
だから、そんな「死」の「象徴的表現」として、ベルイマンは「古式ゆかしく」、死神に人間的な姿を与えたにすぎない。
アントニウスと「死神」がチェスをするのだって、それは、人間の「死」との向き合い方を、言わば、象徴的かつ戯画的に描いたものにすぎない。誰だって、相応の年になれば、自分の「死」を思って、いろいろと「駆け引き」をするものなのだ。
例えば、まだ死ねないと考えて、散歩を始めるとか、食事に気を使うとか、人間ドックに入ってみるとか、サプリメントを飲んでみるとかいったことだ。
そして、これに対しては、老獪なる「死神」は、その裏をかいて「散歩中の不測の事故(交通事故など)」を仕掛けてみたり、「誤った食事療法の情報を与え」てみたり、「検査漏れ」を仕掛けたり、「サプリメントへの有害物質の混入事故」を仕掛けてみたりするのである。
つまりこれが、人と死神との「チェス・ゲーム」だということなのだ。
こう考えてくれば、本作には、どこにも「難解」な部分などない。
森の途中で、別の道へと別れて行った「旅芸人の一家」以外の、旅の仲間。
つまり、アントニウスの城にまでつき従った人々が、アントニウスの帰還を迎えたその奥方ともども、全員、最後は「死神」の訪問を受けて死んでしまい、連なって「死の舞踏」を舞う、つまり死んでしまうということの意味とは、一一信仰を持つ者も持たない者も、優れた者も劣った者も、すべては平等に「死ななければならない」という、当たり前の運命(物理法則)を、象徴的に語ったものでしかない。「死」は、すべてのものに平等に与えられ、いずれ訪れるものなのだ。
では、アントニウスが、自分の命を賭してまで、「死神」の注意をチェスに惹きつけることで、「旅芸人の一家」を逃し、彼らを生き延びさせたという、本作で「唯一の救い」は、何を意味しているのか?
それはもちろん、存在しない「神」が人を救うことはできなくても、「人が人を救うことならできる」ということを示しているのだ。それだけが、唯一たしかな「救い」であると。
つまり、「旅芸人の一家」に与えられた「救い」とは、「神が与えた救い」でなく、「人が人に与えた救い」なのである。だから、
「神がいないからといって、絶望することはない。そりゃあ、神がいないというのは残念なことだが、しかし私たち人間は、人として人を救うことができるし、子供たちの未来に、希望を託すこともできるのだ。だから、絶望することはない」
と、そう語っているのである。
そして、ベルイマン監督自身の思いとしては、アントニウスとヨンスの中間にあって、だいぶヨンス寄りだと言えるだろう。
アントニウスのように、盲目的に「神」に寄りすがるつもりはない。たぶん「神は存在しない」と思う。その意味では、ハッキリとヨンス寄りなのだが、しかし、ヨンスのように「だから、この世は無意味なのだ」と割り切って、虚無的であったり、諦観を持ったりもしない。「神」はいなくても、「人間」を信じ、「人間」に期待をすることはできるし、そんな人間として、アントニウスのような「信仰者」たちにだって、みるべきところはあるし、やれることもある。
一一そんな思いを、本作に込めたのではないだろうか。
すくなくとも、このように理解すれば、本作『第七の封印』には、意味不明なところなどひとつもなく、なんら「難解」でもない、ということになるのである。
(2024年9月5日)
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