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本能寺の変1582 第45話 7信長の甲斐侵攻 2信忠、諏訪進出 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

第45話 7信長の甲斐侵攻 2信忠、諏訪進出 

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信忠の侵攻速度があまりにも速すぎた。

 勝頼の予想を、はるかに超えるものであった。

  武田四郎勝頼、高遠の城にて、一先(ま)づ相拘(かか)へらるゝと
  存知られ侯ところ、
  思ひの外、早速、相果て、
  既に、三位中将信忠、新府へ御取り懸け候由、取々申すにつきて、

武田氏は、瓦解した。

 勝頼の指揮に従う者など、誰もいない。

  新府在地の上下一門・家老の衆、軍の行(てだて)は、一切これなく、
  面々の足弱(女)・子供、引越し侯に取り紛れ、撥忘致し、
  取る物も取り敢へず、

 
参ずる軍勢も無し。

  四郎勝頼、幡(旗)本に人数一勢もこれなし。

 武田信豊は、小諸へ逃れた。
 信豊は、信繁(信玄の弟)の子。
 勝頼の従弟である。

  爰より、典厩、引き別れ、信州さく(佐久)の郡小諸に楯籠り、
  一先づ、相拘(かか)ふべき覚悟にて、下曽根(浄喜)を憑(たの)み、
  小諸へのがれ侯。

勝頼は、孤軍となった。

 織田軍の攻撃に対して、たった一人になってしまった。

  四郎勝頼、攻め、一仁(にん)に罷りなる。

勝頼は、新府城に火を懸け退去した。

 その時、多くの人質を焼き殺したという。

  三月三日、卯の刻(6時頃)、新府の館に火を懸け、
  世上の人質余多これあるを、焼き籠(こめ)にして罷り退かる。
  人質、どうっと泣き悲しむ声、天にも響くばかりにて、
  哀れなる有様、申すは中々愚かなり。

勝頼は、躑躅ヶ崎から新府に移ったばかりであった。

 まだ、三月(みつき)と経っていない。

  去年十二月廿四日に、古府より新府今城へ、
  勝頼、簾中、一門、移徙(わたまし)の砌(みぎり)は、
  金銀を鏤(ちりば)め、輿・車・馬・鞍、美々しくして、
  隣国の諸侍に騎馬をうたせ、崇敬斜ならず。
  見物、群集をなす。

 その境遇が一変した。

  栄花を誇り、常は、簾中深く、仮にも、人にまみゆる事なく、
  いつきかしづき、寵愛せられし上﨟達、
  幾程もなく、引き替はりて、

落ち行く者たちの姿である。

 太田牛一は、「哀れで、見ていられない」、と言っている。

  勝頼の御前(正室)、同そば上﨟(側室)高畠のおあひ、勝頼の伯母大方、
  信玄末子のむすめ、信虎京上﨟のむすめ、
  此の外、一門親類の上﨟の付々等、
  弐百余人の其の中に、馬乗り(馬に乗ったのは)廿騎には過ぐべからず。

  歴々の上﨟、子供、踏みもならはぬ山道を、
  かちはだしにて、足は紅に染みて、
  落人の哀れさ、中々目も当てられぬ次第なり。
                          (『信長公記』)


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