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本能寺の変1582 重要 ◎第45話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

重要 ◎第45話 

信長の甲斐侵攻 2信忠、諏訪進出 2/3 

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 44 ◎ 45 ◎ 46 ◎ 
*以下は、重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。 
*加筆修正 
【参照】信長の甲斐侵攻

◎信忠の侵攻速度があまりにも速すぎた。

 勝頼の予想を、はるかに超えるものであった。

  武田四郎勝頼、高遠の城にて、一先(ま)づ相拘(かか)へらるゝと
  存知られ侯ところ、
  思ひの外、早速、相果て、
  既に、三位中将信忠、新府へ御取り懸け候由、取々申すにつきて、

◎武田氏は、瓦解した。

 勝頼の指揮に従う者など、誰もいない。

  新府在地の上下一門・家老の衆、軍の行(てだて)は、一切これなく、
  面々の足弱(女)・子供、引越し侯に取り紛れ、撥忘致し、
  取る物も取り敢へず、

 
参ずる軍勢も無し。

  四郎勝頼、幡(旗)本に人数一勢もこれなし。

 武田信豊は、小諸へ逃れた。
 信豊は、信繁(信玄の弟)の子。
 勝頼の従弟である。

  爰より、典厩、引き別れ、信州さく(佐久)の郡小諸に楯籠り、
  一先づ、相拘(かか)ふべき覚悟にて、下曽根(浄喜)を憑(たの)み、
  小諸へのがれ侯。

◎勝頼は、孤軍となった。

 織田軍の攻撃に対して、たった一人になってしまった。

  四郎勝頼、攻め、一仁(にん)に罷りなる。

◎勝頼は、新府城に火を懸け退去した。

 その時、多くの人質を焼き殺したという。

  三月三日、卯の刻(6時頃)、新府の館に火を懸け、
  世上の人質余多これあるを、焼き籠(こめ)にして罷り退かる。
  人質、どうっと泣き悲しむ声、天にも響くばかりにて、
  哀れなる有様、申すは中々愚かなり。

◎勝頼は、躑躅ヶ崎から新府に移ったばかりであった。

 まだ、三月(みつき)と経っていない。

  去年十二月廿四日に、古府より新府今城へ、
  勝頼、簾中、一門、移徙(わたまし)の砌(みぎり)は、
  金銀を鏤(ちりば)め、輿・車・馬・鞍、美々しくして、
  隣国の諸侍に騎馬をうたせ、崇敬斜ならず。
  見物、群集をなす。

 その境遇が一変した。

  栄花を誇り、常は、簾中深く、仮にも、人にまみゆる事なく、
  いつきかしづき、寵愛せられし上﨟達、
  幾程もなく、引き替はりて、

◎落ち行く者たちの姿である。

 太田牛一は、「哀れで、見ていられない」、と言っている。

  勝頼の御前(正室)、同そば上﨟(側室)高畠のおあひ、勝頼の伯母大方、
  信玄末子のむすめ、信虎京上﨟のむすめ、
  此の外、一門親類の上﨟の付々等、
  弐百余人の其の中に、馬乗り(馬に乗ったのは)廿騎には過ぐべからず。

  歴々の上﨟、子供、踏みもならはぬ山道を、
  かちはだしにて、足は紅に染みて、
  落人の哀れさ、中々目も当てられぬ次第なり。
                          (『信長公記』)



 ⇒ 次へつづく

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