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本能寺の変1852 その一因 一、武田効果 第116話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 一、武田効果 第116話 

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その一因 
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【シリーズ】信長の甲斐侵攻

その一因 一、武田効果 第116話

【参照】その一因 一、武田効果
【参照】信長の甲斐侵攻 5潮目の変化
    ◎第116話 ◎小116   ◎P116  通し  第116話

⑧信長は、北条氏との友好関係を保持した。
 北条氏政・氏直父子は、恭順の意を示している。
 「今は、これでよい」
 なれど、油断せず。

信長は、視点を切り替えた。
西国へ。
 
となれば、中国毛利。
 ならば、その時期は、・・・・・。

 その様な段階に、突入した。

⑨信長は、信忠を現地に残した。
 戦後処理のために。
 「暫しの間」
 それで、十分。
 そのための、滝川一益。

信長の心は、西方へ移った。
 
これで、東は、片付いた。
 信長は、近日中の帰陣を仄(ほの)めかした。

  然らば、甲斐・信濃の事、城介を残し置き申し付くべき候、
  信長は、不日帰国すべく候、

⑩信長の、老臣に対する姿勢である。
 
路次険難につき、来るに及ばず。
 老人に対する配慮である。

  爰許(ここもと)見廻り、無用に候、
  年寄ども、呼び寄すべきと存じ候へども、
  路次険難、老足叶うべからざる儀に候間、罷り越すべからず候、

信長は、光秀を老人扱いしていない。
信長は、老人を大遠征には用いない。
 光秀には、行動力があった。
 信長は、「まだまだ、使える」、と思っていた。
 その様な年代だった。
 
 事実、中国出陣命令が発せられるのは、この二ヶ月後。
 天正十年五月十七日のこと。
 光秀に、1000km超の大遠征が連続して命じられる。
 相当の体力を要するであろう。
 老人には、出来ぬこと。
 光秀は、まだ、それが出来る年頃だった。
 すなわち、高齢ではあるが、それ程までではなかった。

⑪信長は、友閑に、世に喧伝するよう命じた。
 
友閑から、
 京の公家衆へ。
 五畿内の諸将へ。
 備中の秀吉へ。

  此の口の趣、安土へも未だ申し越さず候、
  京都・五畿内並に羽柴藤吉郎方迄、残らず相触るべく候、
  其の為に具(つぶさ)に染筆候也、

    三月(十脱)七日        信長
    宮内卿法印
           (「武家事紀」「織田信長文書の研究」⑧~⑪/⑪)

 そればかりに、あらず。
 人の数だけ、口がある。
 「噂」、「風聞」。

それは、瞬く間に、諸国の大小名へ伝播した。

信長は、最大の武器を手に入れた。
「戦わずして勝つ」
これが、信長の戦略。
「武田効果」、恐るべし。

最早、この国に、信長に、抗う者などいない。

 ↓
これが、信長の自信へ繋がった。
 ↓
「次は、毛利」
 ↓
「天下統一は、成る」
 ↓
そして、「さらなる夢」へ。

信長、この時、四十九歳。
心身ともに、きわめて、壮健。
来たる年、五十歳。
「人間五十年」
丁度、人生の一区切り。

 ↓
そこに、油断が生まれた。

天正十年1582、六月二日未明、「本能寺の変」。



 ⇒ 次へつづく


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 「本能寺の変」
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