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本能寺の変1582 テーマ別 光秀の年齢 第68話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

テーマ別 光秀の年齢 第68話 

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テーマ別 光秀の年齢

テーマ別 光秀の年齢 第68話

  【参照】◎P68 ◎第68話   

1光秀は、高齢だった。
 
以下、ある程度の幅をもって、考察してみたい。

 信長は、四十九歳。
 
天文三年(1534)の生れである。
 これが、一つの基準となる。
 すなわち、信長より、年上なのか、年下なのか。
 年上ならば、五十歳以上になる。

2光秀には、三人の娘がいた。
 細川忠興室、織田信澄室、荒木村次室。
 娘は、これ以外にもいたようである。

 光秀の三女は、細川忠興へ嫁いだ。
 忠興は、藤孝の嫡男。
 永禄六年1563の生れ。
 母は、沼田氏。
 藤孝、三十歳の時の子である。

 天正二年1574。
 信長の命により婚約が成立した。
 光秀の娘は、三女とされる。
 忠興と、同年という。
 後の細川ガラシャである。 

 天正六年1578。
 二人は、結婚した。
 ともに、十六歳。

 光秀の長女は、織田信澄へ嫁いだ。
 信澄は、永禄元年(1558)の生れとされる。
 信長のすぐ下の弟信勝の遺児である。
 織田家の一門。
 近江高島城主。
 その支配地、高島郡は、光秀の志賀郡に北接している。
 婚姻は、正に、ベストマッチングだった。

 光秀の二女は、荒木村次へ嫁いだ。
 長女は、信澄へ。
 三女は、忠興へ。
 となれば、二女は村次へとなる。
 この女性は、村重の謀叛時、離縁され、光秀のもとに帰された。
 後、明智秀満に再嫁。

3父親たちの生年と年齢。
 細川藤孝は、四十九歳。
 忠興の父。
 天文三年(1534)の生れ、四十九歳。
 信長と同年である。

 藤孝の嫡男*1と光秀の三女*2の婚姻。
 このことから、藤孝より、年上である。
 すなわち、光秀は、五十歳以上だった。
 このあたりが、下限の目安となる。

 *1 忠興は、藤孝、三十歳の時の子。
 *2 光秀は、晩婚だった。
     これについては、後述する。

 織田信勝は、死没。
 
信澄の父。
 
生年は、不詳。
 信長のすぐ下の弟である。
 とすれば、天文四~五年(1535~1536)頃の生れか。
 永禄元年1558、没。
 生きていれば、四十七~八歳くらいだろう。

 荒木村重は、四十八歳。
 村次の父。
 天文四年(1535)の生れ。
 信長の一つ下。
 四十八歳。
 この頃は、毛利に庇護されていた。



 ⇒ 次へつづく

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