本能寺の変1582 重要 ◎第68話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
重要 ◎第68話 11光秀の年齢 1三人の娘
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68 ◎
*以下は、重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。
*加筆修正
◎光秀は、高齢だった。
光秀の年齢について。
現時点では、信頼し得る史料は、まだ、見つかっていない。
諸説あるが、その確実性に問題あり。
したがって、特定は不可能である。
故に、推測する他ない。
天正十年(1582)、三月。
この時、すでに五十歳を越えていたものと思う。
高齢だった。
以下、ある程度の幅をもって、考察してみたい。
◎信長は、四十九歳。
天文三年(1534)の生れである。
これが、一つの基準となる。
すなわち、信長より、年上なのか、年下なのか。
年上ならば、五十歳以上になる。
◎光秀には、三人の娘がいた。
細川忠興室、織田信澄室、荒木村次室。
娘は、これ以外にもいたようである。
◎光秀の三女は、細川忠興へ嫁いだ。
忠興は、藤孝の嫡男。
永禄六年(1563)の生れ。
天正二年(1574)。
信長の命により婚約が成立した。
光秀の娘は、三女とされる。
忠興と、同年という。
後の細川ガラシャである。
一、天正二年、甲戌(きのえいぬ)、正月、
藤孝君を始め、諸将、岐阜え至り、年頭の賀を述べらる、
同十七日、御饗応有り、
藤孝君・蒲生・青地・池田・松永・筒井・畠山・中川・
閉地・関・分部・平塚等なり、
此の時、信長公仰せに、
明智光秀の四男を、筒井主殿入道順慶の養子とし、
光秀の娘を、織田七兵衛信澄(信長の御舎弟勘十郎殿の子なり)に、
嫁すべき由、
又、藤孝君に、光秀と縁家たるべきよし、命ぜられ候、
藤孝君は、忠興君の剛強に過ぎると、言を以って、
御辞退成され候得ども、
信長公よりも、教誡を加えらるべき旨にて、再三、仰せによって、
与一郎君と光秀の息女御縁約の事を、諾せらる。
天正六年(1578)。
二人は、結婚した。
ともに、十六歳。
一、八月、安土に御出仕、
同月、忠興君、御婚礼、御整いなされ候、
(「綿考輯録」)
◎光秀の長女は、織田信澄へ嫁いだ。
信澄は、永禄元年(1558)の生れとされる。
信長のすぐ下の弟信勝の遺児である。
織田家の一門。
近江高島城主。
その支配地、高島郡は、光秀の志賀郡に北接している。
婚姻は、正に、ベストマッチングだった。
◎光秀の二女は、荒木村次へ嫁いだ。
長女は、信澄へ。
三女は、忠興へ。
となれば、二女は村次へとなる。
「惟任日向守むこに候」
この女性は、村重の謀叛時、離縁され、光秀のもとに帰された。
「日向守むすめをうけとられ候」
後、明智秀満に再嫁。
天正七年(1579)。
以下は、その時の様子である。
天正六年霜月(1578年11月)より、七年の十二月まで、
せめつめ(攻め詰め)られ、
其の内に、荒木(村重)は、尼崎へ、九月比(頃)、有岡を忍び出で候、
女・子供をば、有岡に置き、其の身、忍び出で、
荒木父子どもは、尼崎に籠城候、
有岡には、荒木久左衛門(家臣)請け取り、籠城仕り候ところ、
惟任日向守、丹波の国、ことごとく切り志たが(従)へ、
荒木新五郎(村次)は、惟任日向守むこ(婿)に候まま、
則ち、日向守、扱い(調略)を入れられ、種々調(ととの)い、
共にて、有岡を明けて渡し申すべきに相究め、
先に、日向守むすめをうけとられ候、
(「立入左京亮入道隆佐記」)。
◎父親たちの生年と年齢。
◎細川藤孝は、四十九歳。
忠興の父。
天文三年(1534)の生れ、四十九歳。
信長と同年である。
嫡男と三女の婚姻。
このことから、藤孝より、年上であろう。
すなわち、光秀は、五十歳以上である。
◎織田信勝は、死没。
信澄の父。
生年は、不詳。
信長のすぐ下の弟である。
とすれば、天文四~五年(1535~1536)頃の生れか。
永禄元年1558、没。
生きていれば、四十七~八歳くらいだろう。
◎荒木村重は、四十八歳。
村次の父。
天文四年(1535)の生れ。
信長の一つ下。
四十八歳。
この頃は、毛利に庇護されていた。
◎光秀は、荒木村重と深い関係にあった。
以下、村重の略歴を示す。
元摂津池田氏の家臣。
後、主家を乗っ取った。
摂津有岡城主。
天正元年1573
細川藤孝とともに、信長に臣従。
摂津の支配を一任された。
光秀・藤孝・村重は、ともに、西方へ要となる。
天正四年1576
光秀・藤孝・村重は、ともに、本願寺包囲戦に参加。
天正六年1578
謀叛。
光秀の説得、失敗。
有岡城に立て籠る。
天正七年1579
尼崎城に移る。
光秀、調略。
有岡城、落城。
信長により、一族が惨殺される。
天正八年1580
尼崎城より毛利へ逃亡。
◎光秀は、五十歳以上だった。
このあたりが、下限の目安となるだろう。
⇒ 次へつづく
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