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本能寺の変1582 重要 ◎第44話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

重要 ◎第44話 

信長の甲斐侵攻 2信忠、諏訪進出 1/3 

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*以下は、重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。 
*加筆修正 
【参照】信長の甲斐侵攻 

◎信忠は、諏訪に進出した。

 天正十年1582、三月三日。
 信忠は、上諏訪一帯を焼き払った。

  三月三日、中将信忠卿、上の諏訪表に至つて、御馬を出だされ、
  所々御放火。

 
 神々にとっては、迷惑この上ないことである。
 神殿・伽藍は、一時の煙と化した。
 牛一は、これを「仕方がないことだ」と書いている。
 戦国時代である。
 これが、当時の風潮だった。
 
  抑(そもそ)も、当杜諏訪大明神は、
  日本無双の霊験殊勝、七不思議、神秘の明神なり。
  神殿を初め奉り、諸伽藍悉く、一時の煙となされ、
  御威光、是非なき題目なり。


 高島城、開城。
 安中氏、退去。
 織田信房、これを受け取る。
 
  関東あん中、大島を退出の後、又、諏訪の池はづれに、高島とて、
  小城あり。
  是れへ楯籠り、拘へ難く存知、
  当城も、津田源三郎(織田信房)へ相渡し、罷り退く。

 信房は、信忠の弟。
 信長の四男である。 
 幼名、坊丸。
 幼少の頃、岩村城主遠山景任の養子とされた。
 この信房、なかなか数奇な運命をたどる。
 元亀三年1572、武田(秋山虎繁)により、岩村城、落城。
 人質として、甲斐へ送られた。
 天正八年1580、和睦交渉により、織田に返還された。
 同九年1581、父信長と対面。
 同十年1582、六月二日。
 二条御所にて、信忠(享年26)とともに討死。
 生年不詳。
 若すぎる死であった。

◎武田の内崩れ。

 これが、信長流。
 「戦わずして、勝つ」
 威圧して、威圧して、最後に、内部崩壊を誘う手口。

◎穴山梅雪が裏切った。

 梅雪(信君のぶただ)は、天文十六年1547の生まれ。
 勝頼の一つ年下。
 母は、信玄の姉。
 正室は、信玄の娘。
 勝頼とは、従弟であり、義兄弟の関係にあった。
 すなわち、最も血の濃い武田氏の一門衆。
 重臣中の重臣であった。
 その、梅雪が離反。
 織田へ寝返った。 

  さる程に、穴山玄蕃、近年、遠州口押への手として、
  駿河国江尻(静岡市清水区)に要害拵(こしら)へ、入れ置き候。

  今度、御忠節仕り候へと上意侯処(ところ)に、
  則ち、御請け申し、
  甲斐国府中に妻子を人質として置かれ侯を、

  二月廿五日、雨夜の紛れに偸(ぬす)み出だし、

◎武田勝頼は、重臣・身内に見棄てられた。

 「梅雪、謀叛」
 勝頼は、直ちに、諏訪から新府城にもどった。

  穴山逆心の由承り、館(たち)を拘(かか)ふべき存分にて、

  二月廿八日、武田四郎勝頼父子・典厩、諏訪の上原を引き払ひ、
  新府の館に至りて人数打ち納め候ひキ。
                          

◎徳川家康が駿河から甲斐に突入した。

 家康は、穴山梅雪を案内者として、駿河から富士川に沿って北上し、
 市川(山梨県西八代郡市川三郷町) に進出した。
 武田氏の躑躅ヶ崎館までは、凡そ四里(16km)。

  家康公、穴山玄蕃を案内者として召し列れ、
  駿河河内口より甲斐国文殊堂の麓、市川ロヘ御乱入。
                          (『信長公記』)



 ⇒ 次へつづく

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