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僕が【社会貢献×広報PR】で創業した理由①~爆弾テロとの遭遇~

社会問題に取り組むNPOや起業家、社会貢献事業を手掛けるベンチャー企業に特化した広報PR会社を設立しました。「儲からなさそうなのになぜ…?」
クズの子ども時代から関心のあった発展途上国の支援を目指して、国際協力機構や商社、NPO等を目指していた僕が、人生で遭遇してきた偶然や紆余曲折を経て、全くの異世界、PR会社を創業した経緯を綴ってみました。


目次
・「人間という生き物は、どれだけ愚かなのか。」
・発展途上国で感じた、”違和感”の正体。
・転機の爆弾テロ。目の前で起きた『人格崩壊』『憎しみの連鎖』
・日雇いバイト生活後に手にした、海外駐在を辞退した理由とは?
・戦争を引き起こす力を、平和のために。PR業界へ。

「人間という生き物は、どれだけ愚かなのか。」

家でも学校でも、誰よりも愚かで荒れていた学生時代。自分を棚に上げまくった上でこう思ったのが、コトの始まりです。

ある日、テレビに映った映像を観て、衝撃を受けました。
”見渡す限りのゴミ山の中で、ゴミを拾いながら暮らす少女”
「世界がもし100人の村だったら」という番組で、フィリピンのゴミ山「スモーキーマウンテン」で働く12歳の子・マニカちゃんのドキュメンタリーでした。自分と年齢がさほど離れてないのに、ボロボロの服を着ながら家族を支えるために働く。ダンプカーが真横で作業する危険なゴミ山で、換金できそうなものを探す姿。その映像と”発展途上国”という概念に、子どもながら衝撃を受けました。地球上に、こんな世界があったのか。
そして何より、感じたのが…

「世界がもし100人の村だったら」(フジテレビ)

環境破壊への怒り。少女への哀しみ。人類への憤り。

当時、家庭環境がすこぶる荒れていて、学校でもだれかを傷付けてばかり。人に対する優しさは欠如していたけれど、ノラ猫がずっと家に住み着いてたからか、かろうじて動物を愛する気持ちと、環境問題への関心はありました。普段からニュースを見ながら「人間ってマジでどうしようもねーな。」という諦めと怒りを抱いていた中、「もうこれ以上、地球壊すなよ。」という人間への憤りが、煮えたぐって来たのを覚えています。

同時に初めて、人が苦しむ社会問題への関心が芽生えました。(今となっては「かわいそう」という見方や感情が、誤っていたと分かります。)
ただ、貧困そのものよりも「生まれながらに、やりたいことができない・夢を抱けない」環境や境遇があることに衝撃を受けたのだと思います。部活だけは本気で取り組み、そこそこ結果を出していた中学時代、スポーツや校風重視の自分と、学歴を好みたがる親・世間一般の人たちへの反抗心がありましたが、それすらも贅沢だったなと。

性格はクズでしたが、高校入学後すぐに先輩に恋をしたからか、学校生活では穏やかになりました。笑 ただ、部活のウェアでよく使われる四字熟語の刺繍に、周囲が「猪突猛進」など意気込みを入れてる中、一人だけ「地球環境」と刻み、他人にはレジ袋をもらわないように強制しまくり、もらった人にはゴミを見るような視線をくれてやり、パン屋では商品を手掴みながら「これください。」とレジに向かったり…。狂気の矛先が変わっただけで完全にヤバいやつでした。(笑)

発展途上国で感じた”違和感”の正体。

その後「あのゴミ山をこの目で見てみたい」と、大学に入り初めてバックパッカーした国はフィリピンでした。現地を自分の眼で見てみたい、と。
現地を訪れた時、テレビで見たゴミ山は既になくなり、その跡地や新たに作られた埋め立て場があり、その周辺にはやはりゴミを集めている子どもがいました。しかしそこで感じたものは、ある”違和感”でした。

みんな、笑顔。だったんです。当時から何となくジャーナリストに近い気質があったのか、こうゆう世界の現状を写真に収めて、自分の言葉で皆にも伝えたいと思っていました。ところが、テレビで見た”悲惨そうな被写体”は少なく、気付けばカメラに残ったデータには子どもたちの笑顔ばかり。
あれ?思ってたのとなんか違う。

資本主義・貨幣経済への誘拐?

大学ではベトナム人教授のもとで開発経済学のゼミに入りました。先生の日本語がどうしても聞き取れなかったので、 平和構築も同時に学びました。その紛争解決分野のフィールドワークで、アジアで一番新しい国「東ティモール」を訪れました。当時、内戦の収束・独立から10年ほど。映画館とショッピングセンターすら存在しない国でした。内戦の爪痕でボコボコになり、未舗装のままだった長い道のりの先にある辺境の村を訪れた時、あの情景と感覚が訪れました。

東ティモールの農村

また、みんなが笑顔でした。ほんと幸せそう。自給自足してんじゃないかぐらいの経済水準だったのに。当時は国連の暫定統治機関の下で、PKO車両・軍服をいたる場所で見かけたし、通貨は仮で導入されてたUSドル。まさに東ティモールの開発・発展が進んでいくというタイミングで「これから国が創られていくんだ」と肌で感じられました。同時に、あの違和感がしっかりと言語されました。それは、

当時は国連の暫定統治機関

「経済発展って本当に必要?人を幸せにするの?」

という疑問でした。
日本人の方が、圧倒的に不幸そう。通勤電車に乗ってるサラリーマン、みんな顔が死んでるじゃん。産業の発展や経済的豊かさの先に待ってる未来がこれですか?みたいな。ずっと国際協力に興味があったし、開発経済を形だけでも学んできた身としては、なにが正解なのかわらかなくなりました。
「これって資本主義や貨幣経済への誘拐なんじゃないか…?」

転機の爆弾テロ。
目の前で起きた『人格崩壊』『憎しみの連鎖』

そんな悩んでいた矢先。NPOの現場視察と旅も兼ねて中東・アフリカ大陸を縦断した時に、転機が訪れました。
シリア・イスラエルと国境を接する「レバノン共和国」の首都ベイルートで爆弾テロが起きました。僕は偶然テロが起きる数時間前に街を出発してて、到着した先でテレビを見たら、ついさっきまでいた街が爆発でボロボロになっている映像が流れてました。安堵したのも束の間、滞在中の街でも目と鼻の先にある道路が炎上し始め、間もなくマシンガンを担いだ集団がバイクでやって来て銃声がそこら中に響き渡るなど、情勢はかなり不安定。夜になっても、建物の近くで聞こえる「パパパパパー」という乾いた銃声を、ホテルの部屋から冷静に聞いてました。

数時間差でベイルートから移動した先のトリポリ。

ベイルートに戻った時に、自分の人生の中でも衝撃的な出来事が起きました。現地で出会い仲良くしてくれた中年のレバノン人男性がいたのですが、その爆弾テロで奥さんが巻き込まれ、入院していたそうです。
その日は泊まるホテルを一緒に探してくれていたのですが、道端で彼の携帯が鳴り「たった今、奥さんが亡くなりました。」という知らせが届きました。電話に出て数秒後、おっちゃんは眼の前で泣き崩れました。跪いたまま絶叫してました。
言葉にならない言葉で。怒りと、哀しみと、憎しみと絶望で…

僕はただ茫然と立ち尽くして、見ているしか出来ませんでした。
しばらくして会話が少しできる状態になった後、一緒に病院まで向かうことに。その道中には、犯行グループの母国・シリアから来ていた難民の人たちが、ガソリンスタンドや街の清掃員として働いていました。そんな彼らが眼に入った瞬間に「お前らの同族が奥さんが殺したんだ…!」と罵声を浴びせたり、復讐心にかられて石を投げ始めたりしました。

精神不安定で歩くのもやっとな彼に肩を貸しながら、人間の人格が崩壊していく様を、真横で見ていました。
気が付けば自分の頬にも涙が流れていました。ただ、これは悲しみの涙ではなかったです。(※当時、非常に複雑な状況下にあり、自分の精神もかなり不安定に…この件は後日noteで全て書きたいと思います。)
彼には、罵声や投石という小さな攻撃しかできませんでした。
でも、もし彼が子どもで、犠牲になったのが両親だったら…?報復の機会や生活の面倒まで見てくれるテロ組織に入っていくのは、当然の選択ではないでしょうか…?もし自分が同じ立場だったら、普通に入ってると思います。

「あぁー、こうやって戦争って終わんねぇのか。」
その日、僕が目の当たりしたものは、
「怨恨の連鎖」が生まれた瞬間でした。
今回それが、たまたまレバノンとシリアだっただけ。
米軍の兵士が犠牲になれば「アラブ人許さねぇ!」とアメリカの息子が奮起し正義を掲げ、米軍の空爆でアラブ人が巻き込まれれば「アメリカ許さねぇ!」となるだけ。テロリストにも、政府軍にも、米軍にも、自衛隊にも、それぞれに家族がいるし、報復する時は、みんな自分が正義だと思ってる。やられたら、やり返したくなるのは、もちろんわかる。でも、それでは同じことの繰り返し。

そしてそれが、人類が何千年も繰り返してること。
報復とか武力で解決しようとし続ける限り、一生終わらねぁーなと。

怨恨の連鎖をなくすには、新たな火種を生み出さないことが大事だし、周囲の誰かが心理的ケアや教育・就労支援など、様々な継続的なアプローチが必要だなと身をもって痛感しました。

正しい国際協力の在り方を悩んでいた中で「経済発展の必要性は分からない。けど、少なくとも戦争がない、平和な世界を創りたい」と。でも結局それには「お金や経済開発も、色々と必要じゃん」って。

アフリカ大陸縦断の終着地「ケープタウン」から撮影した大西洋

日雇いバイト生活後に手にした、海外駐在を辞退した理由とは?

爆弾テロの直後にPR業界を目指した訳ではありません。すぐに「紛争をなくしたい、平和にしたい!」と情熱と使命感に燃えたかというと、実はそうではなかったんです。
テロが起きた時、僕は大学5年生。JICA(国際協力機構)へ入職しようと就職留年して2年連続で挑み2連続で落ちたため、いつかはその道へと思い、途上国との接点が持てそうなトヨタ系列の商社へ入社が決まっていました。
周囲にも恵まれた環境で仕事をすることに。ただ2年目に「本当にこのままでいいのか?この仕事はどれだけ人や社会の役に立っているのだろう?」と感じていた中で、辞職を決意。折しも、日本人ジャーナリストの後藤健二さんが、中東の過激派組織・ISIS(イスラム国)の犠牲になるというショッキングな事件が起きた年でした。
その時に、レバノンでの経験というか、あの時の感覚がフラッシュバックしてきました。このままではやばい。事件を機に日本人の中東やアラブ人へのイメージ悪化、軋轢や分断、何かの制裁に対する日本人への報復が起きてしまうかもという、とてつもない焦燥感に駆られていました。
それは「怨恨の連鎖が、また始まるかも知れない。何か、何かしなければ。」という危機感でもありました。テロや殺人をきっかけに、人が狂い、憎しみの連鎖が生まれる瞬間を目の当たりにしていた人間として、他人事では全くなかったんです。

後先考えずに退職してしまったので、一旦フィリピン留学を経て、紛争地の難民支援やメンタルケアに携わりたいと思っていたので、ある国際NGOのシリア難民支援の駐在職を受けました。それまでの道のりは結構大変でした。基本的に日本のNPO団体は新卒採用するほど資金や人員の余裕がないので、ポストがいつ空くか分かりません。枠も1名がほとんど。

貯金を切り崩し、減ってく残高を見ながらホテルや結婚式場の日雇いアルバイトをしながら、日々カフェにこもって採用情報をリサーチ&書類を出し続けました。NPOへの転職を初めて気が付けば5カ月が経過。もともとコーヒーが苦手で砂糖とミルクは必須、それでも飲むと頭痛になるほどだったのに、生粋のブラックコーヒー派に。毎日節約のために飲み続けた、スタバの中で一番リーズナブルな「ショートドリップ」のおかげです。(笑)
商社時代、関西の取引先とのMTG中はなぜかコーヒーを出される率が高く、出張の帰りは体調不良で身体が動かなくなり、大阪駅のベンチに横たわってたレベルなのに…人間の適応能力ってすげーわ。

そんな、身体を張って(?)までようやく辿り着いた内定でしたが、迷いに迷った結果、辞退するという決断をしました。面接中にある質問をされたのがきっかけ。「もし他の国で地震とか緊急事態が起きたら、異動してもらうかも知れませんが、大丈夫ですか?」この質問を何度もされました。
面接の度に聞くやん。。確定やん。。
その時に感じたのが「あぁ、緊急性が高く社会の関心が集まる地域や活動を優先せざるを得ないのか…」「資金や人的リソース、それを集めるための認知度があれば、中長期で支援できるのだろうに」と。

戦争を引き起こす力を、平和のために。PR業界へ。

その質問の真偽はさておいて方針転換、毛色の全く異なるPR業界を目指すことに。大学時代から様々なセクターを経験して、本当に必要なことを見極めた上で、日本国内に社会貢献を広めて、携わる人をもっと増やしたいと思っていました。ただ、NPO業界への転職活動を通じて、素晴らしい組織・活動は沢山あるのに、お金と認知度がなくて、十分な活動ができていない現状を知ったんです。
「それなら自分で広めればいい。」社会貢献を広めることで、あらゆる問題の解決を進めたい。現場・解決する側ではなく、広める側にいこうと。社会問題を啓発する側にいこうと。偶然にも新卒で入った商社で法人営業ながらもPRに携わる機会があったんです。注力事業がメディアに紹介され新規の問い合わせがどんどん来て、そのインパクトを身をもって実感していたので、まさにこれだと。

ところで、『戦争広告代理店』という本をご存知ですか?名前こそ広告とありますが、ボスニア紛争でセルビアが国際世論で非難されるように暗躍したPR会社の話。この本をきっかけに、湾岸戦争時にもクウェート人少女の証言や”油まみれの水鳥”の写真や映像を駆使してPR会社が情報を操作、アメリカの軍事介入へ導いた。という事実も知りました。

幼少期からこの”油まみれの水鳥”の写真は覚えていました。環境問題を何とかしたいと強く思ったきっかけの一つでもあります。だからこそ「ふざけんな。」と。あの時の感情は何だったんだ?返してくれって(笑)

PRの力で戦争を引き起こし、継続させられるのであれば、逆も然り。世界を平和にするために、「広報PRという手法を身に付けたい。」そう思いました。そんなこんなで、紆余曲折を経てPR業界への転職を決意しました。

その後、意気揚々と入社したPR会社で感じた限界と創業のきっかけ、会社が目指すことを書こうと思ったら、何とここまでで6,300文字…!
続きは、

◆最高のやりがいの一方で感じたPRの限界。
◆表面的なSDGsはクソくらえ?小さき者を応援する理由
◆どんなことをしてるか【ビジョン、事業内容】
◆将来の夢・・・
などなど次回のnoteで書きたいと思います。
ここまでお付き合いただきありがとうございました!

◆プロフィール
伊東 正樹(ソーシャル・エンライトメント株式会社 代表取締役/広報PRコンサルタント/認定ファンドレイザー)
国連NGOアクセプト・インターナショナル 理事/広報部 部長

1989年 神奈川県生まれ。早稲田大学卒業後(開発経済学/平和構築)、トヨタグループの商社にて営業・PRを経験した後、ライター経験を経て、業界で唯一、メディア経験者のみで構成された PRコンサルティングファームへ入職。
IT・金融・不動産業界の他、ふるさと納税やNPOの認知促進、企業のソーシャルプロダクトなどSDGs・CSV事業を中心に、業界最大手~中小・ベンチャー企業まで多数のクライアントを担当。
独立後、外資系PRエージェンシーのプロジェクトに複数携わった後に、”日本国内への社会貢献の普及啓発”を目指してソーシャル・エンライトメントを設立。紛争解決系の国連NGOに従事する傍ら、学校やイベントでの講演活動の他、社会貢献をコンセプトにしたESGカフェの立ち上げ・PRオフィサーとしても活動。

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