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ブラック労働ほどやりがいを感じるという闇

「教員は大変な仕事だよね。
でも、他では味わえないやりがいがあるから頑張れるね!」


先輩教員や管理職は、まるで示し合わせたかのようにみな口を揃えてこう言っていました。

つまり、労働環境に様々な問題はあれど、やりがいがある仕事だから、自らの意志で続行するほうを選んでいる、というわけですね。

なるほど?
一見もっともらしいことを言っているので、今まであまり気にしてこなかったのですが、休職してまともな思考が手元に戻ってきた今、「それって、なんかおかしくね?」と違和感を感じるようになりました。

みなさんご存知のとおり、教員は日々漆黒の超ドブラック労働に従事させられています。
(残業代、持ち帰り仕事、休憩時間など)
それはもうやりがいで収まるレベルをゆうに超えていて、毎年多くの病休者(私含む)が出ます。過労死も自殺も珍しくありません。

現場の教員はみな、労働環境がヤバいとわかっています。百も承知です。

なのになぜ、「やりがい」のゴリ押しで、日々の過重労働に耐えられるのか??? 

やりがいってそんなに万能なんか?!?!
違法薬物の類か????

不思議に思ったので、改めて自分なりに考えてみました。

以下、私が調べながら考えた3つの説です↓


認知的不協和が関係している説

 人間は、「自分の気持ちや考え」と「実際の行動」がきちんとリンクしていないと不快に思うように設計されているようです。(これを認知的不協和と呼ぶらしいです。)

今回の内容に当てはめてみると、「ブラック労働と理解していながらもなおその仕事を続ける」という矛盾した事柄を脳は嫌うということです。

では、この不快な状況に置かれたときに脳はどうするかと言うと、矛盾が解消されるような理屈を探そうとするようです。

つまり、教員というブラック労働は、本当にやりがいが大きいゆえにデメリットに耐えられるわけではなく、認知のバランスをとって不快感を軽減するために、やりがいが大きい(=耐える価値がある)と脳が錯覚している、と考えることができます。

教員には、教職をやたら神聖視して、唯一無二の尊い仕事だと声高に主張する人が少なくありませんが、これも脳の仕業なんですか?

え、こわ。

アイデンティティを防衛する説

 これは教員への憧れが大きかった人や、長く教員をしている人に当てはまりやすい説だと思います。
幼い頃から先生になることが夢で、そのために教育学部に進学し、熱心に勉強し採用試験に合格して念願の教職に就いた人や、数年から十数年もの間、趣味も余暇も心身の健康も全部度外視で一心不乱に働いてきた人は、人生の多くを教職に〝投資〟(あるいは犠牲に)してきたわけです。

そういった人からすれば、教員を辞めるということは、今までの人生の軌跡という自分のアイデンティティを揺るがす脅威をもった選択肢に他なりません。ジレンマが大きすぎるのです。(前述の「認知的不協和の解消」と重なる部分がある気がします。)

もはや、熱心に信仰していた宗教をやめるみたいな感覚に近いかなと。

長く付き合ったクソ恋人と何故か別れられない感覚にも似ていますね。うん納得。

そもそも思考停止してる説

 私が一番心当たりがある説がこちらです。
心理とか脳とかがどうこう以前に「単純に毎日毎日忙し過ぎて、深く考える余裕(時間的・精神的・体力的な)が微塵も無い」のです。

私のような平凡な若手教員は基本的に目の前のことに忙殺されます。
学校現場の労働環境とか長い目で見た義務教育の在り方とかワークライフナントカとか言ってる場合ではありません。
そんなこと考えてる暇があるなら、目の前の仕事を進めたいし、さもなくば寝たい。といったところです。

そう、人間の思考を停止させるのは簡単なのです。疲れ果てさせればよいのです。
社畜、一丁上がり。


以上が私の考えた3つの説です。
考えるほど闇が深くて怖くなってきたので、
お部屋をクーラーでガンガンに冷やした上で
毛布にくるまって眠りたいと思います。

それではまた
ホッホー🦉





宵闇とニンゲンに紛れ、 プチ贅沢に全力投資しますホッホー🦉 そしてより良いエンタメを貴方へ...