言葉の在り処

「自分の言葉」を探しています。「自分の言葉」ってどこにあるんだろう。

言葉の在り処

「自分の言葉」を探しています。「自分の言葉」ってどこにあるんだろう。

記事一覧

〈私たち〉の「暴力」を〈私〉に返還する。

 〈私〉と〈私たち〉の境界は果たしてあるのか。設定できるのか。記号的には〈私〉という記号と〈私たち〉という記号は決定的に違う。字数も違えば単数と複数であるという…

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あなたが断罪するから、私の責任が生じる

 夕方のニュースを見ていたら、アナウンサーが今回のロシアによるウクライナ侵攻を「プーチンによるテロ」と表現していた。言うまでもないが、ウクライナ侵攻においてウク…

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自己は持続するという幻想

 たとえば、デカルトの言うコギトの構築が真だとするならば、自己は疑うからこそ生じるものであり、裏を返せば、疑わないときには自己は生じない。デカルトがどこまでを想…

コンテクストの解釈か、純粋な対話か

 ちょっと話は変わるけど、思想書とか哲学書に分類される本を読んでいると、例えば「あるか/ないか」、「認識できるか/できないか」という要素以上に、「どうあるべきか/…

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我、語るゆえに我無し

 じゃあもし「あなた」しかこの世界に存在しないのだとしたら、この文章に登場する「僕」は一体誰なのか。「あなた」という二人称しかこの世界に存在しないのだとしたら「…

「僕」さえいなければ矛盾とはおさらば

 前の記事で、世界には「あなた」が先に存在した、みたいな議論までたどり着いた。「私」なんていなかった。最初に「あなた」が生まれて、その副産物として「私」が誕生し…

この世界は「あなた」で満ちている

 「自分の言葉」を探すためにこの文章を綴り始めたが、前回の記事でついに「自分の言葉」も「他者の言葉」も存在しないのかもしれない、という結論にたどり着いてしまった…

与えることは奪うこと

 僕が何かになろうとしたときに他者に阻害されるリスクが少ないということは、それだけ「他者の言葉」によって脅かされるリスクが少ないということだ。  阻害もまた言語…

「何者にもなれない不安」は特権か

 つまり、「自分は何者であるか」という疑問を持てるということは「自分は何者でもない」ということであり、それは同時に、「自分は何者にもなり得る」という可能性を孕ん…

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矛盾は矛盾のまま世界に安住する

「自分の言葉」とは何か、という議論から始まって、自己と他者の境目の曖昧さについての考察に進んできた。僕は他の誰でもありながら、僕だけの僕である、という矛盾。僕の…

イデオロギーをあなたに

 「自分の言葉」に疼きを感じることが多い。  もしかしたら、誰かに言われた言葉によって痛みを感じることよりも、自分の言葉に痛みを覚えることの方が多いかもしれない…

疼きが象る他者の言葉

 「自分の言葉」を実感することは極めて少ないのに、「他者の言葉」をひしひしと感じることはままある。  たとえば、誰かから浴びせられた言葉によって「傷」がついたと…

美しいのは世界か、僕か、はたまた言葉か

 僕は疑いなくこの世界は美しいと思っている。この世界に存在するものはすべて美しく、可愛らしく、そして気高い。例外なく。間違いなくそう断言できる。  ただ、一つ問…

「自分の言葉」ってなんだろう?

「自分の言葉」ってなんなのだろうか。  私たちは生まれた瞬間から既存の言葉の海に溺れていく。海の上を進んでいくための船は絶対に作られない。言葉の海に浸からないま…

〈私たち〉の「暴力」を〈私〉に返還する。

 〈私〉と〈私たち〉の境界は果たしてあるのか。設定できるのか。記号的には〈私〉という記号と〈私たち〉という記号は決定的に違う。字数も違えば単数と複数であるという性質も異なっている。1と2みたいなもので、この二つの記号は異なるものであるということは自明である。

 でも、その二つの境界線は一体どこに引けるのだろうか。僕一人で〈私〉を成して、僕とあなたがいればもうそれは〈私たち〉になるのだろうか。じゃ

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あなたが断罪するから、私の責任が生じる

 夕方のニュースを見ていたら、アナウンサーが今回のロシアによるウクライナ侵攻を「プーチンによるテロ」と表現していた。言うまでもないが、ウクライナ侵攻においてウクライナ領土内の兵士及び民間人を直接殺害しているのはプーチンではなくロシア兵である。しかし、この侵攻の責任はプーチンにある、と基本的にアメリカを中心にしたNATO勢、およびアメリカの傘下におさまっているこの国においても、そのような言説が流布し

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自己は持続するという幻想

 たとえば、デカルトの言うコギトの構築が真だとするならば、自己は疑うからこそ生じるものであり、裏を返せば、疑わないときには自己は生じない。デカルトがどこまでを想定していたかはわからないけど、もちろん人は疑い続けることはできない(比喩的にも比喩じゃなくとも)。疑うときもあれば、信じることもあるし、疑いも信じもしない瞬間だってあるはずだ。とすれば、自己は一人の人の生涯の中で生じたり消えたりするものであ

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コンテクストの解釈か、純粋な対話か

 ちょっと話は変わるけど、思想書とか哲学書に分類される本を読んでいると、例えば「あるか/ないか」、「認識できるか/できないか」という要素以上に、「どうあるべきか/否か」という「倫理的な」問いが必須であるようにも思われる。つまり、「あるか/ないか」という問いを足掛かりにして、例えば「ある」のだとしたら、この世界を「どのようなものにしていくべきか」という問いに跳躍させる。「ない」としても同じだ(この辺

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我、語るゆえに我無し

 じゃあもし「あなた」しかこの世界に存在しないのだとしたら、この文章に登場する「僕」は一体誰なのか。「あなた」という二人称しかこの世界に存在しないのだとしたら「僕」という一人称は存在しない。

 もちろん、「僕」でもあり「あなた」でもあるという二面性は確かに成立するとは思うけど、しかし一方で完全に同じ時間的座標に「僕」と「あなた」という言葉は存在することは不可能だ。「僕」と書いている瞬間に「あなた

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「僕」さえいなければ矛盾とはおさらば

 前の記事で、世界には「あなた」が先に存在した、みたいな議論までたどり着いた。「私」なんていなかった。最初に「あなた」が生まれて、その副産物として「私」が誕生した。まじかよ、なんだよそれ。じゃあ僕っていったい何なんだよ。でももう少しこの仮説に付き合ってみよう。

 世界には「あなた」しかいないのであれば、「自己の欲望とは、他者の欲望を欲望することである」なんていう公式は当然のこととして説明ができる

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この世界は「あなた」で満ちている

 「自分の言葉」を探すためにこの文章を綴り始めたが、前回の記事でついに「自分の言葉」も「他者の言葉」も存在しないのかもしれない、という結論にたどり着いてしまった。探していたものは実はなかった。いや、「自分の言葉」なんていう言葉がそもそも言葉遊びのときにだけ生じる幻想なのかもしれない。

 「自己」と「他者」という言葉は果たして必要なのか。言葉? 概念? 装置? どうしてみんなこぞって「私」について

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与えることは奪うこと

 僕が何かになろうとしたときに他者に阻害されるリスクが少ないということは、それだけ「他者の言葉」によって脅かされるリスクが少ないということだ。

 阻害もまた言語で行われる。言語によって停止し、禁止する。直接そこまでせずとも、停止を促し、禁止を匂わせる。ロープがなくても、手枷足枷がなくても、言葉があれば他者の行動を規制することは可能だ。むしろ、直接的に他者の体を拘束するよりも、言語を通じて思考を拘

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「何者にもなれない不安」は特権か

 つまり、「自分は何者であるか」という疑問を持てるということは「自分は何者でもない」ということであり、それは同時に、「自分は何者にもなり得る」という可能性を孕んでいる。本当に可能性として実在しているかどうかはわからないが、少なくとも、僕の意識の中ではその可能性が根底に息づいているように思える。

 教員として生涯を全うする覚悟もできず、研究者になる努力もせず、音楽は趣味で終わり、小説家になる資質も

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矛盾は矛盾のまま世界に安住する

「自分の言葉」とは何か、という議論から始まって、自己と他者の境目の曖昧さについての考察に進んできた。僕は他の誰でもありながら、僕だけの僕である、という矛盾。僕の中にさまざまな他者性を抱え、僕自身の存在を脅かす存在(他者?)が他でもない僕に内在している。そうなれば、自己と他者の境目はどこにあるのか。

 しかし、その矛盾は矛盾のまま現実に存在している。実存主義と構造主義の対立が長く続いていた。神から

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イデオロギーをあなたに

 「自分の言葉」に疼きを感じることが多い。

 もしかしたら、誰かに言われた言葉によって痛みを感じることよりも、自分の言葉に痛みを覚えることの方が多いかもしれない。いや、多い。幸か不幸か、誰かの言葉によって傷つく経験というのは比較的少ない。傷つかないと気づかないこともあるかもしれないけど、そういうケースは希だ。

 もちろん、僕は競争に重きを置いた環境に身を置いていない(はずだ)し、自分の創作物や

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疼きが象る他者の言葉

 「自分の言葉」を実感することは極めて少ないのに、「他者の言葉」をひしひしと感じることはままある。

 たとえば、誰かから浴びせられた言葉によって「傷」がついたとき。浴びせられた言葉を繰り返し繰り返し反芻する。それがたとえ一つの言葉であったとしても、反芻するにしたがってどんどん物語を帯びていく。今自分は傷ついているが、自分の言葉が相手を傷つけたことが原因なのではないか、どうしてこんな言葉を浴びせる

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美しいのは世界か、僕か、はたまた言葉か

 僕は疑いなくこの世界は美しいと思っている。この世界に存在するものはすべて美しく、可愛らしく、そして気高い。例外なく。間違いなくそう断言できる。

 ただ、一つ問題がある。「この世界は美しい」と言うとき、この「僕」は「美しい世界」に含まれているのか、という問題だ。確かに僕の目の前には美しい世界が現存している。この存在は疑いようはない(瞬きしている間は消滅しているけれども)。でも、僕が目にしている風

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「自分の言葉」ってなんだろう?

「自分の言葉」ってなんなのだろうか。
 私たちは生まれた瞬間から既存の言葉の海に溺れていく。海の上を進んでいくための船は絶対に作られない。言葉の海に浸からないまま、その上を滑りながら、別の世界に飛行することはできない。例外なく、否応なく、幸か不幸か、海に溺れていく。文法規則も、語彙も、生まれた時点ですべて用意されていて、既存の海水を無理やり飲ませられながら、なんとか窒息せずに、海中を泳ぐ術を身に着

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