「何者にもなれない不安」は特権か

 つまり、「自分は何者であるか」という疑問を持てるということは「自分は何者でもない」ということであり、それは同時に、「自分は何者にもなり得る」という可能性を孕んでいる。本当に可能性として実在しているかどうかはわからないが、少なくとも、僕の意識の中ではその可能性が根底に息づいているように思える。

 教員として生涯を全うする覚悟もできず、研究者になる努力もせず、音楽は趣味で終わり、小説家になる資質も努力も不足していて、そのどれにも成り切ることはできないが、その根底には「いずれかのものにはなれるかもしれない」という、実体にはないにも関わらず、無根拠の自信が僕の中に充満している。

 僕が死ぬまでに実際いずれかになるかどうかはわからないし、いずれかになるかもしれないし、なれずに死ぬかもしれないが、問題の眼目はそこではなく、「どれにでもなることができると思っている」ということが大切なのだ。

 僕がそうやって思うことができるためには、「他者や社会制度、偏見によってそれになることを阻害されうる」という可能性が排除されている必要がある。自分が何者かになろうということを目指したとしても、それを邪魔する他者、概念、偏見、社会通念がないという漠然とした「安心感」がある。

 この「安心感」も決して実体を持つものではない。実際、僕が何かになろうとしたときに、何者かが僕の道を阻んでくる可能性はある。しかし、中途半端に生きる僕は今のところ何かになろうとする覚悟を決めていないため、実際に阻害されることはなく、「阻害されていない」という事実が「阻害されることはない」という虚構の「安心感」を創造している。

 たとえば、僕が大学院の博士課程に進もうとする。大学院への進学率は、平成28年度のデータだと、男子が14.7%、女子が5.9%。同じ年、研究者を占める女性の割合はわずか15.3%となっている。

 4年制大学に進学する女性の割合が、短大に進学する女性の割合を越えてから久しいが、未だに学問の場においても、女性はマイノリティの位置に置かれてしまっている。そのときに、社会人の身で博士課程に進もうとするとき、もし女性だったら「なぜ大学院に進学する必要があるのか」という外圧がかかるかもしれない。もし、その女性に子どもがいたら「どうして子どもをおいて大学院にいく余裕があるのか。子どもがかわいそうだと思わないのか」と言われるかもしれない。男性である僕には、そんな声がかかるリスクは、女性よりも低いのかもしれない。

 そもそも、大学院に進学するには資金がいる。正規職員として働く僕だったら(もちろん安いお金ではないが)、学費を納入することも可能だ。もし、生活保護世帯だったら? そこまでいかなくとも、非正規の仕事で、低賃金の職業に就いていたら? 僕の希望はどこまでまかり通るのか。いや、まかり通るか通らないかではなく、「大学院に行きたい」という希望を持つことは可能なのだろうか。希望が実現するか否か、というフェイズではなく、希望を持つことが可能か否か、という次元の話である。あまりにも自明なことかもしれないが、「選択」という行為は「選択肢」を持たなければそもそも行使することはできない。

 教員として働くにも、4年生大学に入学・卒業し、単位を取得して、教員免許状を取得する必要がある。僕は日本文学専攻だったから学費は400万程度で収まっているが、理系の免許を取ろうとしたら必然的に学費は高くなる。学芸大学などの旧師範学校に行くとしても、進学するために予備校に通わなければならないかもしれない。家庭の経済格差が子の進学に影響を及ぼすのはもはや言うまでも無い。お金がなければ「教員になる」という選択肢すら持つことはできない。

 音楽や小説などの文化資本にすぐ手が届くというのも、これも資本がなければ実現することはできない。文芸誌を毎月購入するにも多額の費用が必要になる。プロのオーケストラを聴きに行くのも安いものではない。資本主義の社会では、文化に触れるにもお金がいる。文化資本に手が届かなければ、学問にも手が届かなくなるかも知れない。

 明治文学を繙けば、「自分は何者か」というテーマにぶちあたった文豪たちはすべからくハイカーストの男性だった。漱石も、鷗外も。その特権的な不安の先に、自己の空虚さや、歴史と自己の融合などの境地にいきつくことはできた。じゃあ、実際「何にもなれなかった者」たちは? 「自分は何か」という不安を抱くことすらできずに死んでいった者たちの言葉は一体どこにいってしまったのだろう。

 「自分が何者であるのか」という不安と「自分は何者にもなることはできない」という絶望には大きな断裂がある。前者の不安はある種の特権的な不安であり、不安の裏側には確固たる安堵がある。「自分は何者にもなれるかもしれない」という安堵だ。それに対し、絶望の裏側には、絶望しかない。僕はその絶望には今のところ陥ってはいない。だとするならば、特権的な不安を持つことができてしまっている僕が考えなければいけないことは一体何なのか。僕の不安を構築する言葉はどこから来ているのか。

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