「自分の言葉」ってなんだろう?

「自分の言葉」ってなんなのだろうか。
 私たちは生まれた瞬間から既存の言葉の海に溺れていく。海の上を進んでいくための船は絶対に作られない。言葉の海に浸からないまま、その上を滑りながら、別の世界に飛行することはできない。例外なく、否応なく、幸か不幸か、海に溺れていく。文法規則も、語彙も、生まれた時点ですべて用意されていて、既存の海水を無理やり飲ませられながら、なんとか窒息せずに、海中を泳ぐ術を身に着けていく。

 いや、窒息しているのだろうか。私たち、私は?私はもうすでに窒息しているのかもしれない。誰かの言葉を、誰かの文法を飲み込みすぎて、何かを語るための言葉を飲んでいるけど、飲み込みすぎて、それを吐き出す術をなくしているのだろうか。私の言葉はどこにあるのか。

 私が吐き出そうとする言葉はすでに誰かの言葉であって、私だけの言葉ではない。私、だけ、の、言葉、で、は、ない、品詞分解して、一つ一つ取り出してみても、私が発明した言葉なんて一つもない。どこかを少し探せば、「私だけの言葉ではない」という文だって、何万人の人々が今まで吐き出した文だ。私は誰かが語った言葉を使って語ることしかできない。だったら、「自分の言葉」というものはどこにあるのだろうか。

 時の総理大臣が記者会見を開くと「自分の言葉で話していない」と批判されていた。じゃあ、批判している人々は「自分の言葉」で話すことができるのか。話しているのか。「自分の言葉で話していない」という批判が、すでに自分の言葉ではない。紋切型の批判であって、「自分の言葉」なんていう言葉も手垢にまみれた言葉だ。自分の言葉で話していない人を、自分の言葉ではない言葉で批判して何になると言うのだろうか。じゃあ、自分の言葉で話している人だけが、誰かを批判することができるのか。そういうわけでもない。確かに時の総理大臣は、自分の言葉で話していなかった。それは批判されるべきだ。自分の言葉ではない言葉であっても、批判されるべきだ。でも、そうなれば、「自分の言葉」なんていう領域は不要になるのではないか。その人だけの言葉なんて、不必要なのではないか。

 それでも、人が「自分の言葉」を探すのなら、その言葉はどこにあるのだろうか。自分の中ではないどこかにある言葉は、果たして「自分の言葉」なのか。

 自分の中から湧き上がってくる言葉が、すべて誰かの言葉だとしたら、じゃあ「自分の中」という極めて個人的な領域も、実際は誰のものなのだろうか。「自分の中」も言葉で構成されている。でも、その言葉は私が作ったものではない既存の言葉だ。だったら、オリジナルの私なんて存在しないのではないか。それでも、私は存在する。あなたではない私が存在している。だったら、私とはいったい何なのか。それは私が語ることで初めて象られていくものなのか。語ることで初めて私が立ち現れていくのか。

 誰かが語る言葉の中に「自分の言葉」を探してみよう。それは特定の言葉ではなく、語ることで初めて生じてくる世界なのかもしれない。だったら、私にできることは語ることだけだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?