この世界は「あなた」で満ちている

 「自分の言葉」を探すためにこの文章を綴り始めたが、前回の記事でついに「自分の言葉」も「他者の言葉」も存在しないのかもしれない、という結論にたどり着いてしまった。探していたものは実はなかった。いや、「自分の言葉」なんていう言葉がそもそも言葉遊びのときにだけ生じる幻想なのかもしれない。

 「自己」と「他者」という言葉は果たして必要なのか。言葉? 概念? 装置? どうしてみんなこぞって「私」について考えるのか。「他の誰でもない私」をどうして探そうとするのか。オリジナルな私。「私」と「あなた」という言葉がなければこの世界は存続しえない? 「私」と「あなた」はどこに存在するのか。とてもプリミティブな考え方にのっとれば、そもそもこの世界には「ワタシ」が先に存在していて、その存在に「私」という言葉が充てられた? 「あなた」にしてもそう?

 でも、僕はもちろん「私」だけど、それと同時に誰かにとっては「あなた」でもある。この両義性は一体なんなのだろう。僕は「他の誰でもない私」でありながら、誰かにとっての「他の誰か」に過ぎない(過ぎない?)

 いや、確かに「私」という「主体」は近代になってから作られたものだ。疑う私、購入する私、欲望する私。結局人は神の造形物であるか、神にとっての端末でしかあり得なかった。デカルトにとっても、確かに近代的主体(コギト)は間違いなく存在たり得たのだろうけど、でも、その近代的主体の根源はやっぱり全知全能の神にあった。それこそニーチェに至るまで、カントもヘーゲルも、みんな人間存在は結局兌換紙幣であり、神という「金資本」が兌換紙幣としての人間理性を担保していた。

 日本にとってみれば、やはりそれが「天皇」だったのだろう。政治をするにしても、蜂起するにしてもすべては「天皇」の御名のもとに行われた。道長も、清盛も、頼朝も、義満も、信長も、秀吉も、家康も、伊藤博文も、以下諸々も、すべての権威の源には必ず天皇がいた。天皇は匣に過ぎない。空虚で、実体はない。実体を持とうとした天皇(皇族)たちは、後鳥羽も、後醍醐も、また空虚の座に引き戻された。

 西洋にとっての神は死に、日本にとっての天皇は人間になった。でもどちらも形を変えて存続している。権威の助けを借りずに、一つの個として存在するために導入された制度が結局はコギトであり、「私」だった。そう考えれば、「私」は後付けされたものにすぎない。地縁からも歴史からも宗教からも解放された個としての「私」。でも、そう考えれば結局「私」は前時代的な権威の副産物に過ぎない。権威から解放されているように見えるが、「解放された」と表明するためには今は喪われてしまった権威が必要になる。

 じゃあ「あなた」は? 「あなた」も「私」同様に近代以前は存在していなかった? 「あなた」=「他者」は、近代になって「私」が誕生したのと同時に、あるいは副産物として(副産物の副産物として)「あなた」という別の存在が生まれた?

 いや、本当にそうか? 本当は「他者」が先にいたのではないか? 神という他者、天皇という他者、権威という他者。「あなた」が先に世界に存在して、「あなた」から解き放たれる形で「私」が誕生したのではないか? というかそうだろ。ということは「自分の言葉」よりも先に、この世界には「他者の言葉」が充満していたのではないか? 

 もっと突き詰めて考えれば、この世界には「あなた」しか存在しないのではないか。「私」は存在せず、「あなた」で満ち満ちている? あなたって誰? 神? 天皇? それとも構造? 差異? この僕は「私」であり「あなた」、ではなく、「あなた」であり「私」なのか? 副産物としての僕が、現存在であって、主体としての僕の方が副産物なのか。

 だとすれば、探すべきは「自分の言葉」じゃなくて、「誰かの言葉」「あなたの言葉」の方なのか。欲望の衝突だって、「私の欲望」と「あなたの欲望」の衝突なのではなく、「あなたの欲望」同士が衝突しているに過ぎないのか? 「あなたの欲望」同士の衝突であれば、その衝突を緩和させるためには「自分の言葉」ではなく、「あなたの言葉」が必要なのか。

 世界には「あなた」しか存在しないとしたらどうなる? 神も天皇も後退したこの世界にとって、「あなた」はどこにいる? 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?