美しいのは世界か、僕か、はたまた言葉か

 僕は疑いなくこの世界は美しいと思っている。この世界に存在するものはすべて美しく、可愛らしく、そして気高い。例外なく。間違いなくそう断言できる。

 ただ、一つ問題がある。「この世界は美しい」と言うとき、この「僕」は「美しい世界」に含まれているのか、という問題だ。確かに僕の目の前には美しい世界が現存している。この存在は疑いようはない(瞬きしている間は消滅しているけれども)。でも、僕が目にしている風景の中にはもちろん僕の存在はそこには映っていない。受容器としての僕は、その美しい世界の中に織り込まれていないのだ。「美しい」と感じている僕は果たして美しいのか? 「美しい」ということを感じることができる僕の感受性が美しいのか? そうなると、今度は世界が美しいのではなくて、僕が美しいということになってしまう。

 確かに世界はカオスである。そもそも「世界」という言葉で語られない限りは世界は存在し得ない。目の前にあるものには本質的になんら意味づけされているわけではなく、受容器としての僕たちが言葉で文節して初めて「美しい世界(美しくない世界)」の存在が保証される。

 そして、僕が僕を「僕は美しい」と言葉で分節できれば僕の美しさは保証される。世界の美しさと同じように。でも、この場合もある種の問題が生じて、分節する主体と分節される客体が同一であるという事態が発生する。語ることによって「僕」/「世界」という二項対立を構築できれば話は別だが、僕が僕を言語で規定しても、二項対立はあやふやになる。となれば、僕が美しくなるためには、他者によって「僕」が「美しい」と語られる必要がある。

 もちろん、ネットにこうやって自分の文章をアップしていることも「この人の言っていることはおもしろい」と思ってもらえることを期待しているからで、要は他者に承認してほしいという欲望が起因している。

 しかし、またここで新たな問題が生じる。僕の美しさは誰かに保証「され」なければならなくなる。誰か他者の言語によって語「られる」ことが必要なのだ。僕が美しくあるためには、「美しい主体」であることを放棄して、「美しい客体」として、誰か他の人間の言葉によって語られなければならない。僕の美しさは他人の言葉の中にあり、他人の言葉と僕の言葉が一致したときに初めて間主観的に僕の「美しさ」が保証される。

 だとするならば、人の存在とは一体なんなのか。主体であるためには主体であることを放棄して客体にならなければならない("subject"という言葉がその本質を表しているが)。自分が話している言葉が「自分の言葉」かどうかという判断は「他者の言葉」によって判定されなければならない。とっても矛盾している。結局それは誰の言葉なのか。誰の語りが最終的にその語りを決定するのか。それならば、やっぱり「自分の言葉」とはどこにあるのか。

 このnoteは特に誰かに読んでほしいというわけでもないし、積極的にアップしていることをアピールすることもない(twitterには連動しているけど)。この広いネットの海をただただ無目的に漂っているだけだ。誰にも届かないこれらの言葉は、他者の言葉によって規定されない言葉かもしれない。それらは僕だけの「自分の言葉」になるだろうか。「自分の言葉」は結局は孤立の中にしか存在していないのか。「語ること」の中にあるのではなく、「聞かれない語り」の中に、その人だけの「自分の言葉」があるのだろうか。わからない。

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