あなたが断罪するから、私の責任が生じる

 夕方のニュースを見ていたら、アナウンサーが今回のロシアによるウクライナ侵攻を「プーチンによるテロ」と表現していた。言うまでもないが、ウクライナ侵攻においてウクライナ領土内の兵士及び民間人を直接殺害しているのはプーチンではなくロシア兵である。しかし、この侵攻の責任はプーチンにある、と基本的にアメリカを中心にしたNATO勢、およびアメリカの傘下におさまっているこの国においても、そのような言説が流布している。

 G7の共同声明においても「プーチンの責任」という文言が使われている。とにかく侵攻の責任をプーチン個人に還元したいというのがG7の意志だ。戦後、個人と責任の関係なんてもう嫌と言うくらい議論されていたはずだ。しかし、もうすぐ戦後80年になろうとしているが、いまだに国民国家における事業の責任を国家元首に帰すという論理が大手を振って世の中に蔓延っている。

「侵攻はプーチンによるものだ」という言説を前にすれば、実際に侵攻を前線で行っている兵士の主体は剥奪される。戦車を進め、航空機を操縦し、ミサイルを発射し、他者を殺めている個々人の名前はすべて無に帰されて、それら兵士の存在はすべてプーチンという個人に還元される。この侵攻はプーチンの意志で行われているものであり、その意志はすべての兵士へと地続きとなり、すべての兵士は「プーチンの分身」として侵攻を実行している。

 しかし、主体の剥奪は一つ大きなメリットがあって、兵士個々人は侵攻の責任を免れうるということだ。プーチン個人の責任に還元されている以上、海を隔ててこちら側にいて端末を通してでしか侵攻に関与していない僕からすれば、どんな名前を持っている人物がウクライナの領土を実際に侵しているのかということはついぞわかることはない。ウクライナの民間人が殺害されたというニュースで使われる主語はあくまで「ロシア軍が」というものである。そのロシア軍に間違いなく実在し、トリガーを確実に引いている人物の名前を僕が知ることはできない。知ることができたとしても、おそらくずっとずっと後になってからだ。

 この個人と責任の関係はどこまで演繹できることなのだろうか。「主体を剥奪されることは免責に繋がる」という言説はどこまでミクロの関係性の中にまで適応されうるのか。一人の人間が一人の人間を殺害した場合、その行為の責任は殺した個人に間違いなく帰せられる。殺害を犯した個人が成人であれば、その名前はメディアを通じて視聴者に拡散される。しかし、侵攻・戦争ではそうならない。ウクライナの兵士は1万人以上戦死しているというデータが出ているが、戦死した人間一人ひとりの名前を挙げ、そしてその個々人を殺害したロシア軍兵士は誰かということは絶対に報道されることはない。この断絶はなんなのか。他者の生命活動を強制的に終了させるという行為は同じにもかかわらず、その報道のされ方はまったく違う。この違いはなんなのだろうか。一人の人間が一人の人間を殺害したときに、

 ただ、僕のこの議論には一つ落とし穴があって、この責任の問われ方というのは「メディア」限定の話であるということだ。メディアにおいて殺害を行った人間の存在がどう取り扱われているのか、ということであって、純粋に「殺害の責任は個人に帰せられるものなのか」という議論ではない。議論の出発点も「プーチンによるテロ」というアナウンサーの発言であり、これもメディアから発せられた表象である。

 いや、このことは主体はメディアを通してしか実在し得ないということを物語っているのかもしれない。近代においても「主体」は「小説」や「思想書」、もう少しミクロに述べるなら「文字」や「言葉」を媒体にすることでしか生じ得ないものであった。もしくは、個々人の責任は他者による断罪によって生じるものであるとすれば、やはり責任というものは他者というメディアを通じてでしか生じ得るものでしかないと言える。

 つまりは、ロシア軍兵士個々人の主体というものは現時点のメディアを通じては表象され得ない。メディアで表象され得ないからこそ、主体は抹消される。そして、メディアによってプーチンという絶対他者が召喚され、他者という主体が構築されていく。そうだ、主体は他者によって構築され、承認されていく。鷲田清一が言うように人は「生まる」ものであり、根源的に受動的な存在である。その肉体も受動的に他者の胎内で構築され、他者によってこの世界に生まれだされる。これは「主体」にも同じ論理が適応されざるを得ない。

 また、他者によって構築された主体はメディアを通じて共同体の中でさらにまた広く承認されていく。そして絶対他者としての主体が共同体で承認され、共有されていけばいくほど、共同体内の主体はまた融解し、融合されていく。いや、そもそも融合される主体の前存在である「確固たるこれ以上分けることのできない個々の主体」というものは存在しえないのかもしれない。メディアによって表象を共有することで初めて、集合的な主体が構築される。

 近年批判の対象になっている「自己責任論」において、もっとも恐れるべきことは「すべての責任は個人に還元される」ということではなく、「他者によって『この行為の責任はあなた個人に帰すべきである』と断罪されること」であるはずだ。責任の所在や有無ということ自体は批判されることではない。責任の所在を他者が攻撃するところに最も暴力が集中している。つまり「自己責任論」において最も恐れるべきは他者の存在である。そして自己責任論が先鋭化されていくと「断罪する他者」が個人に内面化され、個人の中に飼う他者がその個人を断罪するようになる。あなたに語られることで責任は生じる。あなたに断罪されることで責任が発生する。教育機関、企業を通じて内面化されたあなたも、私を断罪する。責任の源泉は「あなた」にあるということだ。

 プーチンが絶対的な「あなた」であるのと同時に、プーチンの侵攻責任はプーチンにとっての絶対的な「あなた」である欧米を中心としたNATO・G7の諸国に存在する人々の言説によって構築される。構築する主体は「あなた」であり、「私」「主体」は「あなた」に構築されることで生じるのだ。

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