「僕」さえいなければ矛盾とはおさらば

 前の記事で、世界には「あなた」が先に存在した、みたいな議論までたどり着いた。「私」なんていなかった。最初に「あなた」が生まれて、その副産物として「私」が誕生した。まじかよ、なんだよそれ。じゃあ僕っていったい何なんだよ。でももう少しこの仮説に付き合ってみよう。

 世界には「あなた」しかいないのであれば、「自己の欲望とは、他者の欲望を欲望することである」なんていう公式は当然のこととして説明ができる。だって、この世界には他者の欲望「しか」存在しないのだから。自己の欲望なんていうのは言葉の上における他者の欲望の副産物でしかない。もしかしたら、「私」を消去すれば、いろんな哲学的テーマは解決されてしまうんじゃなかろうか。

 西洋哲学は、近代以降いろんなものを脱構築してぶっ壊しまくったけど、とにもかくにも「私」には固執していた。デカルトは形而上的な存在を措定しながらではあるけど方法的懐疑によってコギトを構築してみせた。時代は飛ぶけど、ニーチェだって神は殺してみせたけれども、実存は残しておいた。実存主義は言うまでもないけど、構造主義も、差異という構造を中心において考察はしているけれども、差異の網目の中には「私」が必ずいた。フッサールが主客や客観的心理が実在するということをエポケーしたように、「私」という存在をエポケーしてみたら、まったく違う風景が見えるのではないか。

 だから、僕はいないんだ。僕は誰かにとっての「あなた」であって、僕ではない。だから、僕の言葉は僕の言葉ではなく、「あなたの言葉」に他ならない。

 子どもは言語の習得過程において、他者の言語に完全に依存する。自らゼロから創出する言語体系、能動的に自発的に開発する言語というものは存在しない。でも、子どもはそれが「誰かの言葉」であるということを疑うことはできない(本当に?)。「誰かの言葉」を「自分の言葉」としてとらえることで欲望に輪郭を与えていく。いや、輪郭が与えられていく。そうするうちに、他者から付与「された」欲望を、「自分の欲望」であると「誤読」していく。そういった「誤読」こそが「発達」なのかもしれない。他者のものを自己のものと間違えるという意味での誤読。

 そうやって一つ、あるいは複数の言語体系に身を投じたあと、「自分とは何か」と考えたところ、やはりそれはもう遅い。「自分とは何か」ということを考える手段もやはり他人から付与された言葉なのである。そこで見出される「自己」も必然的に「他者」にならざるを得ない。

 フロイトやラカンが言うように、精神分析の到達点が、「語ることによってクライアントが主体を構築すること」であるとして、じゃあ「主体を構築した」と判断するのは誰かといったら精神分析医に他ならない。ということはつまり、クライアントが構築すべき「主体」とは、医者から見た「他者」ということになる。言葉の上では「主体」であったとしても、それは患者から見ても、医者から見ても「他者」である。

 いうなれば、僕の身体(「僕の」という所有格も果たして正しいかはわからない)も、僕が能動的に獲得したものではない。もともとは他者の身体の中で製造された卵子と精子が結びついてできたものだ。今、キーボードを打っている僕の身体から僕の身体は自然発生したわけではない。僕は僕を生むことはできないし、僕は他者から生まれ落ちた。それだけでも、僕という人間はいかに他者の存在に依存しているかがわかる。いや、依存しているのではない。僕が他者そのものであるのであれば、それはごく自然なことだ。

 前の記事で僕はこんなことを述べている。

僕は他の誰でもありながら、僕だけの僕である、という矛盾。僕の中にさまざまな他者性を抱え、僕自身の存在を脅かす存在(他者?)が他でもない僕に内在している。そうなれば、自己と他者の境目はどこにあるのか。
(「矛盾は矛盾のまま世界に安住する」)より

 この矛盾も「私」が存在しないのであれば、一気に解消される。結局この世界は「他の誰でもある」という存在しかいないとすれば「僕だけの僕」という存在は存在しないことになる。そして自己と他者の境目は存在しない。この世界には分割されえない「他者」しか存在しないのだから。

 この「世界にはあなたしかいない」という観点に立脚して様々なことを考察してみよう。もしかしたらやっぱりどこかに突き当たるのかもしれない。「私」「自己」の消失などあり得ない。「私」の消滅は世界の消滅かもしれない。でも、他者しか存在しない世界だってあり得るかもしれない。もう少し、この仮説に付き合っていこうと思う。

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