疼きが象る他者の言葉

 「自分の言葉」を実感することは極めて少ないのに、「他者の言葉」をひしひしと感じることはままある。

 たとえば、誰かから浴びせられた言葉によって「傷」がついたとき。浴びせられた言葉を繰り返し繰り返し反芻する。それがたとえ一つの言葉であったとしても、反芻するにしたがってどんどん物語を帯びていく。今自分は傷ついているが、自分の言葉が相手を傷つけたことが原因なのではないか、どうしてこんな言葉を浴びせることができるのか、他の言葉でコミュニケーションを図るわけにはいかなかったのか。言葉は次々に物語を生み、物語と物語は連鎖して、結合して、また増殖する。

 そのどの物語も僕の中から出てきた物語なのではなくて、どこまでも「他者の言葉」によって織られている。「他者の言葉」を自分の文脈に落とし込むことができない。自己化することができない。

 そんなときに胸の奥の方で温存されるじくじくと疼く正体を僕は知らない。もちろん「心」なんてものは言葉によって象られている「解釈ごっこ」に過ぎないわけで、「傷」がつくような実体でないことは重々承知している。内側から感情が生産されて、手先手足しぐさに現象するわけではない。現象を解釈することで感情の生産に遡っている。それはわかっている。それでも、自分の中から疼くような痛みが湧き上がるのを止めることはできない。「これは気のせいだ」「感情なんて解釈の産物に過ぎない」という僕の言葉は疼きによって食い尽くされて、僕の言葉ではないはずの「他者の言葉」が体内に蔓延って疼きを生産していく。

 時間が経てば、疼きは薄らぎ、残滓となった「他者の言葉」だけが澱のように身体の中に堆積する。普段はその堆積物を意識することはないけれど、ふとした拍子に澱が浮かび上がってきて、ちくりとした疼きを生み出す。「他者の言葉」はいつまでたっても「他者の言葉」で、自分の言葉になることはない。

 でも、他者が他者のまま自分の中に堆く積まれたままであることは悪いことではない。安定を求めるために、相容れない他者との交流の中で他者を自己に織りなおしてしまう。でも、他者を他者のまま自分の中に迎え入れるためには、疼きもともに迎え入れなければならない。いや、疼きを迎え入れるからこそ、他者を他者のまま自己の中に堆積させられる、と言った方がいいのか。

 自分が言葉によって象られるのなら、他者は痛みによって象られる。なだらかな球体は、掌を表面に滑らせることでやっと球体だということがわかる。でも、どれほど小さくとも、針は少し触れるだけで激しい痛みを与える。「自分の言葉」の全容をつかむことは困難だが、「他者の言葉」を数えることはそれほどに容易だ。だったら、「自分の言葉」とはなんなのだろうか。

 でも、「自分の言葉」には、疼きを感じることはないのだろうか。

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