与えることは奪うこと

 僕が何かになろうとしたときに他者に阻害されるリスクが少ないということは、それだけ「他者の言葉」によって脅かされるリスクが少ないということだ。

 阻害もまた言語で行われる。言語によって停止し、禁止する。直接そこまでせずとも、停止を促し、禁止を匂わせる。ロープがなくても、手枷足枷がなくても、言葉があれば他者の行動を規制することは可能だ。むしろ、直接的に他者の体を拘束するよりも、言語を通じて思考を拘束していく方が確実なのかもしれない。

 言語は増殖する。他者の身体をロープで縛った場合、縛られた者は再び自分の体をロープで縛ることはできない。縛るだけの身体的自由もなければ、そもそも身体にはロープがすでに施されている。しかし、言語は違う。

 言語を他者から浴びせられる。その言語によって行動は規制される。継続的にその言葉を浴びせられると、その言葉が語彙として規制された者に根付いていく。根付くと、他者からその言葉を浴びせられなくとも、自分で自分にその言葉を吐き、自分で行動を規制するようになる。言語によって行動を規制されても、自分に言語を浴びせる自由は決して規制されない。しかも同じ言葉は何度でも何度でも浴びせることができる。幾重にも幾重にも自己にロープを施していく。そうして他者によって構築された自己規制は、自己の責任へと変化していく。

 前にも書いたように、僕はその他者規制にどっぷり加担している。他者を規制しようとする。実際に規制できているかどうかはわからないが、規制を試みようとしている。努力しろ。励め。自己を省みろ。向上しろ。上を目指せ。下を見るな。様々な語彙を駆使して、他者を向上させようと規制を試みる。

「自分は一体何者なのか」と自問自答を繰り返す僕は、他者に対して「こういう者になれ」という号令をかけつづける。自分が何者かもわかっていないのに? むしろ、自分が何者かもわかっていないからこそ、他者にはこういう者になれと言うことができるのだろうか。僕は何者にでもなれる可能性があるという希望を払拭できずにいる(払拭する気などあるのか?)。その僕の身勝手な希望的観測を、他者に押し付けているのだろうか。君たちも僕と同じように何にでもなれる可能性を持っている。何かになるために、努力をせよ。努力をしなければ、何者にもなることができない。僕と同じようになってしまう。僕と同じ、とは? 不安を抱くことができる特権的な立ち位置にいること? 特権であり、愚か?

 だとすれば、それ自体が非常に身勝手で自己中心的だ。実際、僕から規制を受けている「他者」は、言うまでもなく僕から規制を受けている。「何者かになれ」という規制を受けて、何者かになった場合、それは本当に、その人にとっての「自己」なのか? 「君は自由だ。どこにでも行ける」という美しい言葉は、同時に「ここにいてはいけない。同じ場所に留まってはいけない」という規制になりうる。その規制を真に受けて、どこかに飛び立った場合、その鳥は自由に大空を羽ばたいていることになるのだろうか?

 また、自己が消えてしまう。他者の中からすら、自己が消える。

 僕にできることはなんだろうか。規制することをやめる? 多分それはできない。それは僕でなくとも、他者に向けて規制、ある種の欲望を差し向けることをやめて生きるということは死ぬことに等しい(本当に?)。規制をやめることができないならば、僕は何ができるのか。他者に向かって、規制をしながら、何が可能なのか。

 一つは「奪わないこと」かもしれない。規制することはある種「与える」ことだ。付与すること。アイデンティティや生きる目的を付与すること。言葉にすれば美しいが、洗脳とやっていることは変わらない。言葉を与え、制度を与え、それに身を投じさせ、順応させる。言葉を与えられることは、自由をつかむことと束縛されることを同時に施される。どんな美しい言葉だって、整った思想だって、正しい倫理だって、それを他者に与えたとき、すべては規制になりうる。「与えること」をやめられないのであれば、「奪わないこと」を目指すべきなのではないか。

 他者が持つ自己に向けた欲望が発露したとき、その欲望を僕は阻害しない。極めて限定的な場でしかあり得ないかもしれない。他者がどんな欲望を持っているかどうかはその他者が欲望を言葉にして、その言葉を僕に向けて(あるいは僕に聞こえるように)発したときに初めて判明する。その発露の際に、その他者の欲望を消去するということをできるだけ回避する。他者の欲望を欲望するのではなく、他者の欲望を抑圧しない。

 しかし、それは非常に困難な作業ではある。なぜなら、僕も欲望する主体であるからだ。僕の欲望と、他者の欲望の間に摩擦が生じた際に、果たして僕は他者の欲望を抑圧しない、ということが可能なのだろうか。その摩擦をどのように消去することが可能なのか。

 自己の欲望と、他者の欲望を折衝するための言葉とはどのようなものなのか。その言葉は、僕の言葉であり、それと同時に他者の言葉なのかもしれない。自己の言葉と他者の言葉の境界の曖昧さをこれまで議論してきたが、実は前提が違うのかもしれない。言葉は僕のものでもなければ、他者のものでもない。「自己の言葉」と「他者の言葉」というはっきりわかれた二項が存在するのではなく、その二つは実は同じものなのではないか。自己と他者の折り合いをつけるために交換されるべき言葉。その言葉が見つかれば、「自分の言葉」を探す必要はなくなるのかもしれない。

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