我、語るゆえに我無し

 じゃあもし「あなた」しかこの世界に存在しないのだとしたら、この文章に登場する「僕」は一体誰なのか。「あなた」という二人称しかこの世界に存在しないのだとしたら「僕」という一人称は存在しない。

 もちろん、「僕」でもあり「あなた」でもあるという二面性は確かに成立するとは思うけど、しかし一方で完全に同じ時間的座標に「僕」と「あなた」という言葉は存在することは不可能だ。「僕」と書いている瞬間に「あなた」という言葉を書くことはできないし、もちろん実際の発話でもそうだ。「僕」は「僕」と書いて、言っている瞬間は「僕」でしかないし、「あなた」もまたしかりである。この完全に一致できない「僕」と「あなた」の乖離というものはどのように説明されるべきなのだろうか。やはり「僕」と「あなた」は重なり合うことはないのか。

 「僕」という一人称はもちろん仮構されたものでしかない。「僕」は「僕が」と文字に起こされた時点で発生し、今キーボードを打っているシニフィエとしての〈ボク〉とは全く別個の存在である。「僕」が先にいて文章が書かれ始めるのではなく、文章が書かれて初めて「僕」がこの世に存在できる。「僕」を仮構することによって書き手である〈ボク〉が〈ボク〉を客観視することができる。しかし、この客観視も西洋思想でいう「真理」としての客観とはまた別次元のものである。こうして書かれた〈ボク〉も、結局書かれた文字列であって、実在は先(?)へと延期されてしまう。延期ではなく差延というべきか。文字列の中では〈ボク〉という実在は永遠に遅延し、決定されることはない。そうであるなら、本当にキーボードを打っている僕は、今どこにいるのか。

 近代以来、コギトは疑うことで確立していた(ポストモダン思想によって近代的自我はばらばらに解体されるわけであるが)。じゃあ、「僕」の存在が語れば語るほど「僕」から遠ざかるのだとすれば、永遠に「僕」の確定が遅延されるのであれば、じゃあ僕が語ることの実在性はどこに担保できるのか。

 いや、確立されないからこそ、逆に他者としての「あなた」の実在性の根拠が確立されるのではないか。つまり、観測点は無であるからこそ、観測されることの実在性が保証される。

「この世界は美しい」と言うとき、この「僕」は「美しい世界」に含まれているのか、という問題だ。
(「美しいのは世界か、僕か、はたまた言葉か」より)

 過去の文章における僕の問題提起だが、「僕」の消去によってこの問題は見事に解決される。他者として描かれる「美しい世界」に僕が含まれていないのは当然である。「僕」は観測者として仮構された単なる装置でしかなく、その装置によって知覚され、言葉が付与された他者としての世界の方こそが実在なのではないか。つまりは「あなた」だ。「我、語るゆえに我無し」であり、「我、無かる故に汝有り」になる。

 思想は言葉で体系づけられる以上(ニーチェは体系づけられた思想なんて要らないと言っていたが)、体系づけるための統一思念体として「僕」が仮構されざるを得ない。その「僕」は限りなく僕に近しい存在ではあるけど、決して僕自身ではない。しかし仮構された「僕」が僕の代理で思念して文字に起こし、結論付けたものは、確実にこの世界に実在している。統一思念体としての「僕」ではなく、キーボードを打つ僕によってその言葉は再び眺められ、新しい発想へと繋がっていく。現にこの文章も、書き始めたときにはどこに向かうか一切わからないまま出発したが、何か結論めいたものに結び付こうとしている。これも、「僕」という無が出現したからこそ、実在のアイデアが創出されたということにほかならない。

 ウィトゲンシュタインの言う「独我論」とは全く逆のベクトルの考え方でもある。つまり中心だけが空白で、周縁だけが実在している。いわば前の記事でも書いた天皇制と同じことが生じている。天皇も絶対的な他者であり、天皇という空虚な中心が生み出す実在もまた他者なのである。この世界には他者しかいない。他者しか存在し得ない。他者の実在こそが、「あなた」の実在こそがこの世界を創り出す。

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