コンテクストの解釈か、純粋な対話か

 ちょっと話は変わるけど、思想書とか哲学書に分類される本を読んでいると、例えば「あるか/ないか」、「認識できるか/できないか」という要素以上に、「どうあるべきか/否か」という「倫理的な」問いが必須であるようにも思われる。つまり、「あるか/ないか」という問いを足掛かりにして、例えば「ある」のだとしたら、この世界を「どのようなものにしていくべきか」という問いに跳躍させる。「ない」としても同じだ(この辺はマルクス=ガブリエルを読んでみたらわかってくるのだろうか)。「ある/ない」という、文脈から解き放たれたような問いに対して、文脈を付与するような動きが最近はよく見られる。

 カントもそうだった。実在や認識を論じながら、「理性」と呼ばれるものを批判的に考察し、最終的には定言命法というア・プリオリな倫理観に至っていく。ヘーゲルも、マルクスも、ハイデガーも、サルトルも、バルトもそうだった。哲学した上で、どう生きていくべきなのか、という「べき論」まで思考を巡らせる。最高精神にたどり着くべき、はずだ。資本主義は、資本家は労働者革命によって打倒されるべきだ。人間は受動的な存在に甘んじることなく、投企していくべきだ。人間は世界の構築に参画していくべきだ。批評を通じて、言説に含まれているイデオロギーを看破するべきだ。様々な倫理観を哲学者たちは述べていく。

 でも、デリダは違った。デリダはフッサールを読むことを通じて、「書くこと」「読むこと」をひたすらに突き詰めていた。フッサールの言説を(記号の「表現/指標」という作用の対立など)を次々と脱構築していくことによって、エクリチュール、声の特性を探っていく。しかし、そこには脱構築したあとに、どうすべきかというところまでは詳しく書かれていない。デリダはまさに「あるか/ないか」という「倫理以前」のことを突き詰めて考えているのだ。

 文学研究は元々そうであったように思う。書かれていることを倫理的観点から批評していく、という方法は古い文学研究ではあまり利用されてこなかった。しかし、フーコー以降、社会学的な観点から文学が論じられることが多い。というよりは、社会学の観点に合わせるように文学が読まれていく場面をよく目にする(その場合、文学ではなく、小説と呼ぶべきなのだろうか。はたまたテクスト?)。「このように書かれているのは倫理的か否か」「このように書かれている裏にはこのような社会的コンテクストが存在している(た)」など。

 たとえば、僕は今「僕は存在せず、あなただけが存在している」という論を掲げて議論を展開しているが、では「あなたしかいない世界はこうあるべきだ」「あなたしかいないと仮定すると社会はこんな風に変わっていくだろう」という、社会構築の部分までも論じていくべきなのだろうか。「いる/いない」という実在の部分だけを論じていては何かを書いたことにはならないのか。はたまた書き手としての責任を謳歌したことにはならないのか。

 SNS全盛時代、むしろ作品には作家論的なコンテクストが付与されるべきという趣が強化されているようにも思える。「書き手の意図」の復古というべきか、しかもそれは読み手の要請ではなく、書き手による要請。書き手からの発信による「意図」の強化。デリダが中心となって脱構築批評が形成され、読み手優位の時代が長く続いた。書き手が何を思って書くか、作るか、ということよりも、読み手が、社会がその作品をどう受け止めたかということが優先される批評空間。そんな相対主義の世の中にSNSが表れ、今度は書き手の意図までもが消費されていく時代に突入している。

 思想に、作品に、文学に、時代的なバックボーンは必要なのか。社会的なコンテクストは必須条件なのか。純粋な問いとは? なんのコンテクストにも縛られない、純粋な問いは存在するのか? いや、でもデリダのテクストは、明らかにフッサールとの対峙にある。フッサールが遺した膨大な資料・言葉とデリダの対話。純粋な対話。作家の意図でもなく、社会的な要請でもなく、一人の哲学者と一人の哲学者の間だけでなされる対話。デリダの「脱構築」という言葉を使って社会参画しようとするのは後世(デリダがこの世を去ってからそんなに時間は経過してないけど)の人間だ。

 思想が時代を作るのか。それとも時代が思想を作るのか。社会が思想を構築するのか、思想が社会を構築するのか。はたまた、それらはすべて乖離しているべきなのか。「べき」? 

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