〈私たち〉の「暴力」を〈私〉に返還する。

 〈私〉と〈私たち〉の境界は果たしてあるのか。設定できるのか。記号的には〈私〉という記号と〈私たち〉という記号は決定的に違う。字数も違えば単数と複数であるという性質も異なっている。1と2みたいなもので、この二つの記号は異なるものであるということは自明である。

 でも、その二つの境界線は一体どこに引けるのだろうか。僕一人で〈私〉を成して、僕とあなたがいればもうそれは〈私たち〉になるのだろうか。じゃあ僕とあなたと彼が入ったらそれは〈私たち〉から別の記号になっていくのか。一人だけだと〈私〉で、二人以上だと〈私たち〉になるっていうのはとっても乱暴なわけかたなのではないか。

 いや、そもそも〈私たち〉という記号の中には、当然ではあるけれど「あなた」という成分は含まれていない。「たち」という別の記号によって「あなた」という存在は抹消されて、〈私〉という別の記号の中に吸収されてしまう。あなたの立場からしてみれば、僕とあなたが形成する〈私たち〉という記号に吸収されているのは僕の方であって、つまり〈私たち〉という記号を使ったところで、僕とあなたの二人で形成されていますよ、ということを表現することは不可能になってしまう。〈私たち〉という記号が発せられるときに、僕やあなたは世界のどこに姿を消してしまうのだろうか。僕の身体は現にこうやってあるのに、集団を形成したときに、記号の中で消滅させられる僕やあなたという存在。

 もしかしたら前提が間違っているのかも知れない。〈私たち〉という集団は形成され得ない。僕とあなたで形作る「なにか」、僕もあなたも消滅しないままで形成される「なにか」を表象できる記号はこの世界に存在していないし、記号が存在しないということは、この世界にそのような集団の形成のされ方は存在しないということになる。じゃあどうして〈私たち〉や〈我々〉なんていう記号をみんなは使用し、交換し、コミュニケーションが成立しているのだろうか。

 ここで〈私〉と〈私たち〉の正触媒として「暴力」という用語を使う。今、世界ではいたるところで戦争が繰り広げられていて、そこでは公的もしくは私的な「暴力」が行使されている。どちらかの勢力が「暴力」を行使し、片方の勢力はその「暴力」に対抗している、という非対称はあり得ない。戦争が起きている以上、どちらの勢力も「暴力」を行使しながら、お互いの均衡点を模索し合っている。しかし、理念としては、そのような「暴力」は行使されるのではなく、行使されずに消滅することがあるべき姿なはずである。戦争がなくなれば、「暴力」を行使する必要はない。「暴力」によって平和がもたらされるのか、それとも平和がもたらされることで「暴力」の行使が不要になるのか、その優先順位は今回は問わないが、ともかく、「暴力」は「行使してはならないもの、あってはならないもの」という理念を世界が共有していることは間違いない。これは国家規模の「暴力」、いわば〈私たち〉の暴力の論理であり、〈私たち〉が平和に生活できるのであれば、〈私たち〉は軍備を縮小させるべきである、という理念は共有されている。今は中途されているものの、歴史の中で軍縮、核兵器削減の動きは絶えず続いていた。

 一方で〈私〉の「暴力」はどうだろうか。〈私たち〉が行使するような公的な「暴力」ではなく、あくまで個人的な、あくまでミクロな「暴力」。僕はあらゆる場所で「暴力」を行使している。特に自分の子どもに対しては、無理やり抱っこしてお風呂に連れて行ったり、遊んでほしくないものを力づくで取り上げたりすることはしょちゅうある。殴る、蹴るというものではないものの、僕の都合を優先するために子どもの身体の自由を脅かして行為をさせる、というものは「暴力」に他ならない。

 この「暴力」は、僕にとっては正直必要不可欠であり、生活を営んでいく上では「行使しないにこしたことはないけど、行使せざるを得ない暴力」として僕が勝手に承認している。この承認には子どもの意志は反映されていない。民主的に妥結された暴力ではない。民法における「懲戒権」も見直しが検討される中、このようにして僕は子どもに対して「暴力」を行使して、それを「仕方ないものだ」として認めている。

 だとすれば、そうだとすれば、〈私たち〉の「暴力」も〈私〉の「暴力」と同じように、「理念としてはなくすべきものだけど、仕方なく行使せざるを得ない暴力」になってしまうのだろうか。力によって他者の意志を捻じ曲げ、特定の行為をさせる「暴力」は同じであり、違うものはそれを行使するのが〈私たち〉か〈私〉かということだけだ。〈私たち〉と〈私〉に明確な境界線が引かれ得るのであれば、〈私たち〉の「暴力」はなくすべきであるものの、〈私〉の「暴力」は行使せざるを得ない場面もある、と「暴力」にも線引きをすることができる。しかし、〈私たち〉と〈私〉に明確な境界線が引けないのであれば、「暴力」もまた境界線を失う。

 じゃあ、〈私たち〉の「暴力」も、〈私〉の「暴力」も「行使してはならず、なくすべきもの」という理念のもと、削減されるべきものなのだろうか。絶対になくならないのに? どうやったって「暴力」はなくならないにもかかわらず、理念だけ存在するということ? そんなことを許していいのか? いや、許すもなにも間違いなく「暴力」は、いや括弧なしの暴力ですらもなくならなければならないはずだ。そう断言しなければならないはずである。でも、なくすことなんてできない。暴力の行使なしに生活を営むことなんて不可能だ。本当に? 世界の平和を、秩序を保つためには、暴力は必要不可欠のもの? 本当に? でも、現に今は行使されている。お互いの秩序を保つために、お互いの正義を貫くために日々暴力が行使され、たくさんの人の命が失われている。「暴力」は果たしてなくなるのか? なくそうと思ってなくなるものであり得るのか? 〈私たち〉と〈私〉という境界線の有無の先に、暴力の根絶は可能か否かという議論が先なのだろうか。核兵器はなくせる。そう言うべきなのは当たり前だし、もしかしたら核保有国の元首すらも「核兵器はこの世界から根絶すべきものだ」と言ってのけるかもしれない。でも、現に核兵器は残っている。この世界にはまだ1万発を超える核ミサイルが存在している。「なくすべきだ」という声の後ろには、核弾頭が自分の出番が来るのを手ぐすねを引いて待っている。子どもの身体を拘束することと、核兵器を同列に扱うことはあまりにも荒唐無稽な論理の飛躍なのか? 

 でも時の首相は集団的自衛権の憲法解釈の説明の際に、「どろぼうから家を守るためには防犯設備を整えなければならない。この話と同じだ」という論理をいろんな場所で使用している。やはり、国家権力が保有する実力と、〈私〉の身の安全を守るために装置は同列にして語ることができてしまうのだろうか(この首相は泥棒から身を守るという話の際に警察機関というもう一つの暴力装置の存在を完全にエポケーしている。自衛は自己責任であって、他者の助けを借りてはいけないという前提にたった考え方であり、この考え方は集団的自衛権の理念と真っ向から矛盾するようにも見えるが、その辺りは特に深く考えていないのであろう)。

 議論が触媒によって汚染されてしまった。「暴力」という言葉が定義づけできない以上、〈私〉と〈私たち〉の境界を明確にするための装置として機能し得ない。「なくすべきだけど、行使せざるを得ないもの」という記号の順番と「行使せざるを得ないけど、なくすべきもの」という記号の順番は果たして同一のものなのだろうか。

 究極な話をすれば、人は生きていくうえで、他の動植物を殺し、その身体を食らって生きているわけであり、やはり他の生物の死の上に僕の生命は成りたっている。菜食主義者だろうがヴィーガンだろうが、他者を食らって生きていることには変わりはない(多寡は違えど)。他者の存在を自分の都合で変更し、その行為の上に自分の生活を成りたたせるということを「暴力」と定義すれば、やはり暴力から逃れうる人間はこの地球上には存在しない。おそらくヴィーガンにとっては「他者を食べる」という行為は「できるだけなくすべきである」という理念を持っているように思える。しかし、そうでない者にとっては食べることは「なくすことができないもの」であり、むしろ「喜び」「悦び」として肯定的に承認している者が大多数であろう。つまり、食べるという暴力はただの「行使せざるを得ないもの」にまでなる。

 鶏肉を焼いて食べることと、原子爆弾を落として数百万の人間の命を脅かし、失わせることは同列に語れることなのか? 「それとこれとはまったく話が違う」というのであれば、じゃあその「違い」は明確にどこで線引きができるのか? 鶏肉を食べることと、人を一人殺すのではどうだろうか。自分の子どもの身体を束縛することと、鶏肉を食べることは同じ? 〈私〉は無邪気に〈私たち〉になっていいのか? 〈私たち〉になれる、と宣言したときに、背負わなければならないものが山ほどあるのではないか? 〈私たち〉が否定したいものまで、原罪として刻み込まれなければならなくなるのではないか? そのような矛盾の上に民主主義という政治システムは成りたっているのではないか? 〈私たち〉の存在を肯定したと同時に、核兵器の存在をも肯定することにはならないか? 〈私〉の暴力を肯定した途端に、〈私たち〉の暴力も肯定せざるを得なくなるのではないか? それとも、〈私たち〉は免罪され得るのか? 

 この議論を打破する論理はやはり一つしかなく、やっぱり〈私たち〉は形成され得ないのだ。〈私〉はいるとしても、〈私たち〉が形づくられることはあり得ない。そうすれば、〈私たち〉の「暴力」も存在できなくなる。「暴力」は常に僕のものであり、そしてあなたのものであり、誰かのものである。国が主体として暴力を行使するのではなく、現象として起きるのは、個人がスイッチを押して、ミサイルを飛ばし、そして遠くの誰かが死ぬ。それは国家による暴力なのではなく、スイッチを押した個人の暴力に帰せられる。それはあなたの暴力であり、あなた個人の暴力である。けっして〈あなたたち〉の暴力ではない。そのように、個々人の暴力を分類して、「行使せざるを得ない暴力」と「行使してはいけない暴力」の線引きを策定するのは可能かもしれない。そして、個人を抑制することによって暴力を根絶することも可能かもしれない。

 集団的暴力から、個人的暴力へ還元する。「暴力」を〈私たち〉のものから、〈私〉のものへと取り返す。

 いやー--------でも、僕的構築主義の立場からすれば、暴力は社会が生産したものであり、そう考えればやっぱり〈私たち〉の暴力なんじゃないの?? いや、ちょっと待て、社会は〈私たち〉と同義なのか? 社会は社会であって、人格ではないだろ。じゃあ障害は? 障害は〈私〉に付与されてんのけ? 障害を抱えている主体は社会であり〈私たち〉であるっていう考えかたはどうなのよ。いや、だから、社会は〈私たち〉なの? 社会が抱える責任と〈私たち〉が抱える責任と〈私〉が抱える責任は同義なの?

 社会ってなんだよ…。社会を構築する主体は〈私〉なのか、〈私たち〉なのか…そして構築された社会が主体になるということは〈私たち〉が主体となっているということなのか…。うーんうーん…。

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