自己は持続するという幻想

 たとえば、デカルトの言うコギトの構築が真だとするならば、自己は疑うからこそ生じるものであり、裏を返せば、疑わないときには自己は生じない。デカルトがどこまでを想定していたかはわからないけど、もちろん人は疑い続けることはできない(比喩的にも比喩じゃなくとも)。疑うときもあれば、信じることもあるし、疑いも信じもしない瞬間だってあるはずだ。とすれば、自己は一人の人の生涯の中で生じたり消えたりするものであってしかるべきだ。

 近代は自己が持続するという幻想の中に成りたった世界である。近代以降の社会とでも言おうか。進歩史観は自己が持続することを前提に構築されている。今日の自己と明日の自己が同一のものであり、地続きで繋がっていると考えることが可能だから、今日の自己と明日の自己を比較して明日の自己の方が優れていると規定することができる。

 先物取引や、株式による資本の運用も、この持続によって保証されている。先物取引は「買う自己」の前借であり、株式などの運用も、基本的には「利潤を受け取るであろう未来の自己」を想定して商品を購入する。10年後、20年後の自己が、利率を計算してどれだけの利潤を受け取ることができるだろうか、と考える。現時点での自己と20年先の自己が全く同じ存在なわけがない。細胞は幾度となく代謝を繰り返し、有する経験や知識も全く違ったものになっているはずである。いや、それすらも想定できない。変わっていないかもしれないし、変わっているかもしれない。しかし、どれだけ未来の自分が不確定でも、もしかしたら自己が消滅しているかもしれなくとも、利潤を受け取る自己を仮構して商品を買う。買った自己と受け取る自己が同じであると仮構して。

 教育におけるPDCAサイクルもそうだ。同じ場所をぐるぐると回っているのではなく、サイクルを繰り返すうちに上方へと移行していくのが適切なPDCAサイクルだ。持続する自己は螺旋階段を上へ上へ昇っていくことが期待される。それもすべて、自己の持続が前提になっている。

 しかし、最初に述べた通り、その持続は幻想でしかない。それはデカルトのテーゼの中にすでに含まれていた矛盾であった。近代的自我の構築の論理の中に、自我の消失のロジックまでプログラミングされていたのである。

 これは宮澤賢治が『春と修羅』の中で見抜いていたことだった。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

宮澤賢治『春と修羅』より

 人は、自己は明滅する交流電燈なのだ。光っては消え、光っては消える。自己は持続しない。ちかちかとフラッシュを繰り返しながら生きていく不安定なものなのである。確固たる自己などない。あるとすればそれは語りの中か、もしくは神の見えざる手の中にしかない。今日の自己と明日の自己は別なものであり、その一瞬一瞬が電燈の明滅だ。その中に一貫した「成長」なんて存在するのか。「自己は持続的に成長し続ける」という物語は真なるものとして成立するのか。もちろん、その問の答えは「否」だ。自己は不安定であり、ある社会通念に照らし合わせたときに、進化したり退化したり安定したりする。進化することはもしかしたら退化かもしれないし、退化するようにみえることもまた然りだ(人がエネルギーの手段として化石燃料を使えなくなったら、それは退化なのだろうか、進化なのだろうか)。

 今までの議論に引き戻すのであれば、「持続する自己」が幻想だった場合、やはり「自己」はなく、「他者」しか存在し得ない、という仮説は成りたつのではないか。他者は不安定だ。視界に入れば生じ、視界から立ち去れば消滅する。他者は明滅する。他者を推し量ることは究極には不可能であり、観測することができない。星の輝きは一定に見えるけれど、星は自転し、公転し、形を常に変え続ける。地球もまたしかりで、プレートは日夜動き続け、この瞬間も形を変え続けている。量子は観測すれば動き、その座標を確定することは困難だ。他者は不安定だ。しかし、不安定だからこそこの世界に実在できる。デカルトはある種正しい。疑われるものは実在する。疑っている自己は明滅するが、疑われるものは常にそこにある。

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