矛盾は矛盾のまま世界に安住する

「自分の言葉」とは何か、という議論から始まって、自己と他者の境目の曖昧さについての考察に進んできた。僕は他の誰でもありながら、僕だけの僕である、という矛盾。僕の中にさまざまな他者性を抱え、僕自身の存在を脅かす存在(他者?)が他でもない僕に内在している。そうなれば、自己と他者の境目はどこにあるのか。

 しかし、その矛盾は矛盾のまま現実に存在している。実存主義と構造主義の対立が長く続いていた。神から何かを与えられた存在ではなく、「私」は「私」として存在しているのか、「私」も言語同士の関係と同じように誰かと誰かの「差異」の中にしか存在しないのか。「イヌ」という言葉は「イヌ」という独立したシニフィアンを持ちながらも、そのシニフィエは「ネコ」「オオカミ」などの他のシニフィアンが指すシニフィエとの差異の中でしかシニフィエとしての独自性は保ちえない。矛盾している。矛盾しているが、矛盾しているということは「この世界に存在してはならない」ということにはならない。何かができないことが、そこにいてはならないことの根拠にはなり得ないのと同じように。

 矛盾することは近代合理主義の中で配されてきた。論理的でないもの、客観的でないもの、一貫性を持たないものは科学だけではなく、思想からも排除されてきた。AはBであり、AはCであったら、BはCでなければならない。しかし、BはCでなくても、この世界には存在できる。存在してしまってる。(この考えはどちらかといえば実存主義によっている考え方かもしれないけど)

 矛盾は矛盾として成立し、世界に存在できる。しかし、矛盾は不安を掻き立てる。矛盾を解消しなくてはならないとする力学が働く。こうして、僕は解決しなくてもいい矛盾を解決するべく言葉を弄する。ほどかなくてもいい結び目を、しかもほどくことができない結び目を躍起になってほどこうとする。それも言葉の上で。ここで紡がれている言葉も虚構にすぎないのに。

 じゃあこの結び目をほどこうとする言葉が「自分の言葉」なのだろうか。自己と他者との曖昧さを見つめなおし、その解けない矛盾を解消しようとする言葉こそが、「自分の言葉」なのか。自己を発見するための言葉が、まさに「自分の言葉」なのか。

 じゃあその「自分の言葉」はどこから来ているのか? もっと言えば、この「存在不安」ともいうべき、自己の存在が孕んでいる矛盾に対する「不安」はどこから来ているのか? 他者の言葉が体内で蠢いているときに生ずる疼きに似たような不安なのか? 僕の中から湧き上がってくる感情? その感情と、私の「外」にある社会は関係を持たない?

 議論をここで転換させる。僕はこの「不安」を抱いて「しまっている」という「被害」のニュアンスで語っている。その結び目がさも邪魔なものであるかのように言語で規定している。その前提は果たして正しいのだろうか。この「不安」は、「自分が何者であるのか」「自分と他者は何が違っているのか」という「不安」は、抱いて「しまう」ものではなく、「抱くことができている」ものなのではないか。もっといえば、「抱くことができてしまっているもの」なのではないか。僕はなぜ、不安になることができてしまっているのだろう。

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