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小説

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短編/中編小説をまとめました。。長くないのでサッと読めます。
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#舞台

六甲山ホテルにて

六甲山ホテルにて

 誰かが階段を上る音で、私は目を覚ます。その不愉快な木の軋む音、僅かな振動はこの身体を通り、階下の神経質な老夫婦をも執拗までに刺激する。二つの溜息がそれを表している。
理不尽な扱いには職業柄慣れていた。何処からの依頼だったとしても、画家というのは軽んじられる風潮が未だに根付いていたし、この油塗れの服装では、配管工と間違えられても文句は言えない様である。
そして、私のキャンバスは未だ純真無垢なままで

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エンドロールに母の名は

エンドロールに母の名は

 一概に映画のエキストラと言っても、その役割は実に様々。自然な空気感を演出する者、映像に僅かな違和感を生み出す者、それらは一つの作品をより洗練された所へ導く為の、重要な担い手であると自負する私である。
だから先日、母に語った「映画俳優の卵」という自らの現状についての説明も、不本意ではあるものの決して誇張だとは思わない。
しっかり卵と言ってあるし。

 だが恐らく母は気付いているのだろう。今の私の生

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コルカタ急行の車窓から(後編)

コルカタ急行の車窓から(後編)

 我々がバラナシに到着したのは、陽もとっくに沈んだ後、恐らく午後八時頃ではないか。 駅の混雑の中で大きく身体を伸ばした私は、帰路に再度この狭く騒がしい寝台列車に乗らなければならない事を考えて、多少憂鬱になった。眩しい駅の構内を抜けて外に出ると、人影は見えるもその暗闇に目が慣れず、先導して歩く黒木さんに着いて行くので必死な私である。
インドへ降り立った初日も、こんな状況だった事を思い出した。我々はつ

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コルカタ急行の車窓から(前編)

コルカタ急行の車窓から(前編)

 農村部にある集落の境に、幅広い河川が見える。一瞬にして通り過ぎてしまう間に、その川で水浴びをする子供、岸で見守る母親と連れ立って欠伸をする家畜の姿があった。列車の連結部から身を乗り出して、再度その光景を見ようとする私を、Y君は静かに止めた。
「危ない」彼はただそう言って、寝台車から持って来た煙草に火を付けると、左右を警戒しながらも、盛大に煙を吐いた。我々は日本を出て、確かに変わったらしい。見知ら

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牛窓ホテルにて

牛窓ホテルにて

 岡山県東部に位置する瀬戸内市、その名が示す通り瀬戸内海に面したこの街にあって、日本有数の避暑地として名を馳せる牛窓地区。高台に上がって見れば、一年を通して大きく荒れる事のない天候、そして温厚な海に浮かぶ小豆島、前島、長島。手前のヨットやボートに乗る連中の姿は、そんな小島から少し離れた場所にて隆起する岩の様子を成して、寝転がって休憩する者と太陽の光を全面に受けるべく、精一杯身体を伸ばす者に別れてい

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僕が葉書を出した理由

僕が葉書を出した理由

寂しい表情の一つでもしてみれば?
彼女が別れ際に呟いた言葉だ。言葉は此方に向かって発せられた訳ではなく、あくまでもただの独り言である、という確固たる意志を持ちながら、それでもしっかりと僕の耳には届いていた。そんな冷め切った空気の所為で、新幹線が出発してしまった後、しばらくその場で立ち竦んでしまった僕は、後ろに乗車待ちの列が出来てしまった事にすら気付かない有り様だった。

 いつの頃からか、新神戸駅

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夕凪はもう去ったか

夕凪はもう去ったか

 あの夕暮れの中、海岸沿いに立ってした会話の事を、彼はもう覚えてはいないだろう。今日もまた同様に、太陽が水平線の向こうへ沈もうとしている。空はいつの間にか透き通った水色から、燃え上がる様な橙色へその姿を変えて、この身体を染め上げるのだ。寄せては返す波が、私の心の奥底にある何か柔らかい物に触れようとして––それは、叶わない事を悟る。いつの頃からか、私は子供ではなくなった。成長に伴い、自らを守る術とい

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歩む男、かく語りき

歩む男、かく語りき

 例えば、我々の正面に山が聳え立っているとする。想像出来得る限りの雄大さを、その山に与えてやって欲しい。すると意気揚々と山頂を目指す人物が一人。ジョージ・マロリー氏である。やはり来ると思っていたが、ここまで早いとは。では、私達もそれに追随してこの頂き迄の道を行くか、と言えばそれは違う。決して私はそんな苦行を良しとしない。遠くの平坦な道を歩いて、その山塊を背後に写真の一つでも撮ってやろう。
ただ、も

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散りゆく光の雨

散りゆく光の雨

 十月になっても頭上には、相変わらずの月が浮かんでいた。背後の手水舎と鳥居に続く石段を黄金色に染めて。それでも私が身を疎ませるのは、拝殿の影に潜む鈴虫かコオロギが、そんな情景に感嘆の声を上げたからである。耳障りであるから、足元にあった石の欠片を参道に這うようにして放れば、ひとたび響いた乾いた音で、その感傷的な輩は口を閉ざした。
神無月とはいうが、自らの寝床から見えるその光景をふいにしたとしても、こ

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