見出し画像

夕凪はもう去ったか

 あの夕暮れの中、海岸沿いに立ってした会話の事を、彼はもう覚えてはいないだろう。今日もまた同様に、太陽が水平線の向こうへ沈もうとしている。空はいつの間にか透き通った水色から、燃え上がる様な橙色へその姿を変えて、この身体を染め上げるのだ。寄せては返す波が、私の心の奥底にある何か柔らかい物に触れようとして––それは、叶わない事を悟る。いつの頃からか、私は子供ではなくなった。成長に伴い、自らを守る術というものを身に着けていたらしい。だが今でも当時の弱かった部分、多感な部分というのはしっかりと残っていて、例えばこういった夕陽を見た時、幾分感傷的になるのは私だけではない筈だ。

 潮風香る野球場というのをご存じだろうか。和歌山湾を越して、国道四十二号線へ入ればその野球グラウンド、つまり我々が通う中学校の校庭に当たる訳だが、その高い緑色のフェンスが左手に見える筈である。授業中でも窓を開ければ容赦がない、眠気を誘う小波のうねる音、時折鼻を衝く乾燥した潮の香り。それは教科書片手に顔をしかめた教師をも、窓際で立ち止まらせ、自らの過去の姿でも思い出しているのか、何処か遠い景色でも見ているかの様な面持ちにさせる。そんな環境において、我々の十代は構成されていった。
中学三年、野球部に所属していた私は、エースの山崎が投げた球を受ける事が出来るという誇りを持ち、それでいて打順は四番、キャプテンだったのだから今思い出してみても文句がないほど恵まれた状況だったのかもしれない。そして、それを素直に誇りと思えるくらいには、やはり努力をしていたのだ。弱小校ではなかったものの、決して強豪校でもない。公式戦二三回が関の山というあくまで凡庸な経歴を持ちながら、去年の夏に我が校へ転校してきた山崎の投球を見れば、今年こそは行けるのではないか、という誰しもが言い様のない期待を胸に抱いてしまう。そんな外様が羨望の的にいたとしても、我々の中で山崎に嫌な顔をする奴は一人もいなかったし、どちらかと言えば、私は彼の最も仲が良い友人だった。

 我々は野球部での活動を介して仲良くなったが、そこにバッテリー間の絆という様な物があったのかは分からない。連れ立って映画を観に行ったり、流行っていたゲームをして遊ぶ仲だったので、少なくとも当時は友人として互いを認識していたのだと思う。私が彼の家に遊びにいった時、その広大な庭と家宅に驚いた事がある。安価な国産車が駐車場に停められていた事を除けば、眩暈がする程の豪邸だった。彼の母は静岡県知事の一人娘、父は山手にある割と名の知れた高校の教師であった為、例え家の中でゲームをしているだけでも、その厳格な雰囲気は私を包み込み、まるで「貴方がうちの子を唆しているんでしょう?」とでも言われているかの様な錯覚に陥るのだ。そんな金持ちだった事を何故もっと早く言わなかった、と責める私に軽く謝りながら、彼がする話といえば、遊び過ぎて漫画を取り上げられただの、テストの結果が芳しくなかった為小遣いを減らされただの、それは資産家の坊ちゃんとは言わずとも、躾が細かい親を持つ家庭を想像さえすれば、やがて彼が被った仕打ちに行き着くような、そんな良い意味でも悪い意味でも『一般的な厳しい家』なのだ、と彼は言っていた。あの巨大な家に住まう父が、よく勉強ではなく部活に打ち込む事を許してくれるものだな、と思った私であるが、その思考はある意味正しかったのだ。

 彼を含めた数人で、当時話題になっていた映画を観に行った時の話である。梅雨が明けて間もなくといった頃で、我々三年生にとって最後の大会がすぐそこまで迫っていた。そんな中に何故映画を観に行ったのかは分からない。恐らく私たちが彼を唆したのだろう。
我々が住む街に映画館などといった気が利いた物が有る訳もなく、私たちはその好奇心を満たす為、幾度となく和歌山駅までその足を伸ばす事となった。最寄り駅に続く坂道を下る途中、前方に広がる入道雲が何の形に見えるか、などとたわいもない会話をしていた記憶がある。この街の住宅地区は山を切り開いて作られており、とにかく坂が多かった。なだらかな道もあれば、自転車では上がる事が困難な道まで。我々の住まいはまさにその山の頂に位置する場所であり、帰宅する時の事を考えれば、自転車のペダルを漕いで坂を下りる者はいなかった。
「雲が低いなぁ。午後から雨、降るのかな」
と山崎が私に尋ねた。それは暗に、誰も天気予報など確認していないのだろうといった諦めの意味を孕んでいた。なので、正直に分からないと答えた私を責める者はいない。映画館からの帰り、電車の窓から隙間風に乗った雨粒が私達の身体を冷やした。

 程なくして雨が上がり夕焼け模様となった。暇な我々は、駅からほど近い海岸沿いの道を歩き始める。数人ごとにグループを作った様な成りで、山崎の傍を歩く私であるが、彼はもうすぐ日が沈みそうな和歌山湾の水平線、その茜色の空を眺めながらこちらに一言。
「俺、大阪の高校受験するからさ。一緒に野球は出来ないけど、休みとかは遊ぼうな」
そうか、もうそんな時期かと思ったのは恐らく私だけだろう。我々と同様、地元の高校に進学して、今と同じ様に山崎の投げる球を受けるのだとばかり思っていた。
「ふーん、残念やなぁ」
とっさに口を衝いた言葉がそれだった。
「もし僕等が一緒の高校で野球部に入って、またバッテリー組んだらどうなっただろうな」
「さぁ、どうにも......」
彼は口を噤んだ。ならないだろう、とその言葉は続く筈だった。だが、彼はそのあとの言葉を口に出そうとはしなかったし、私も特に聞こうとは思わなかった。
気付くと凪となっていた。山崎は黙って、自らのポーチに入ってあった野球ボールを、思いっきり振り被った後に海へ投げ捨てた。先を歩く友人たちは、ボールが水に落ちる音でそれに気付いたらしく「何投げたんだよ」と言って笑いながら此方へ駆けて来た。私はただ茫然とそのボールの軌道を追っていた。悲しい事はない。口惜しい訳でもない。ただ、彼が投げたその白球は見事な放物線を描いた後、その綺麗な回転をもって、まるで溶ける様にして水面に消えて行ったのだ。どうやら彼はその自身が投げた球に、ある種の決意を込めている様だった。その決意がどの様な物か、私には説明が出来ない。
夕陽が十代の私たちを染めていた。私はそんな自分を包み込む空気の中に確かに存在する弱さを、当時は決して認めようとしなかった。少しの衝撃でバラバラに崩れてしまいそうな、そんな不安定さを含めて自分の精神、身体は成り立っていたんだと、ようやく今になって理解する事が出来る。

 我々の中学生活における最後の公式戦、それは夏季大会の予選一回戦だった。山崎は紛れもなく好調だったし、試合前の投球練習を見る限り、相手チームのバットはこの球を掠る事すら難しいのではないかと思った程だった。結果として我々は六点差を付けられて負けた。皆が汗塗れの顔に涙を混じらせる中、私は何故か悔しさなど微塵も感じず、業務をこなす様にして最後の挨拶を終わらせた後、その見失った熱意は受験勉強を通して取り戻す事となった。

 山崎とは中学校の卒業を境に疎遠となった。
地元の高校に入った私は、何故か中学生の頃に毛嫌いしていた奴と一番の友人となった。そいつとの親交は未だに続いている。
山崎は高校に進学した後、野球部には入らなかったらしい。そのまま大阪の大学へ行って大手商社へ就職したとの事だった。
これだけ家が近くとも、不思議と中学の卒業以降顔を合わせた事はなく、風の噂で彼の話を聞いただけだ。十代の頃に築き上げた友人関係というのは、得てしてこういう終わりを迎えるのかもしれない。
ただあの夕陽と共に水平線へ消えた白球の行方、当時から十五年が経過した今となっても、そんな物がふいに気になる時がある。

この記事が参加している募集

#部活の思い出

5,460件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?