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『陰毛の渦』




『陰毛の渦』



大学卒業後、社会に食べられる順番が遅かったせいか、私は歳を重ねても風貌があまり変わらない。
もうすぐ三十になるというのに、いまだにしょっちゅう大学生に間違われるし、初対面の年下の男女からため口をきかれることも少なくなかった。

ハローワークの近くにあるカフェでブレンドコーヒーを飲んでいた。木目調の丸テーブルの上に印刷してきた求人情報の紙を並べて、深いため息をつく。
かれこれ一年くらい無職である。ほぼ毎日、ハローワークへ行き、帰りにこのカフェで休憩しながら、友達の修二と会うという流れが日課になっていた。
修二はまだ来ない。尿意を催した私はトイレへ行き、席に戻った。すると、私の飲みかけのコーヒーに一本の陰毛がぷかぷかと浮いていた。陰毛はカップの真ん中で威風堂々と黒光りして輝いている。


どーいうこと?二分前までなかったのに、キミはどこから現れたの?突然すぎるでしょ。というか、汚いでしょ。まさか、真上の天井から吊されてある筒型のライトについていたのがこのタイミングではらりと落ちてきたとか。そんなことがありえるの?


思えば、この陰毛ってヤツは神出鬼没である。ヤツはどこからやって来るのは知らぬが、あるときはCDケースの中にいるし、またあるときは自分が着けているマスクの内側にひっついていた。ヤツはいつでも私を喫驚させる。思いもしないところから顔を出す。先日はかっぱえびせんの袋の中にいたし、メルカリで購入した寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』の古本の各ページにヤツが一本ずつ栞のように挟まっていた。そのときはさすがにぎょっとした。
出品者はどんなサイコパス野郎だったのか。残念だった、の評価にすればよかったと後悔している。

などと思い、苛々していると、ブレンドコーヒーを持った修二が猫背で席にやってきた。修二は私の前のバイト先の後輩である。歳は私より二つ下だ。
九ヶ月くらい無職の修二は、正午すぎまで家で爆睡していたらしい。昨日から十六時間も寝たそうだ。よっちゃんイカを咀嚼している修二は、風俗店の帰りみたいな気の抜けた顔をしており、普段は一重まぶたの目が、なぜだか、二重まぶたになっていた。


凌さん、遅れてしまってすいませんでした。いやいや。寝すぎました。仕事してないから、体は全然疲れていないはずなのになぜだか起きられなかった。
毎日、不安だから、精神が疲れてるんすかね?
いっそ死にたいなあ。でも、まだ生きなきゃなあ。でも、生きていける自信がないなあ。こんな社会不適合者の俺を誰か救ってくれないかなあ。神社へ行こうかな。ところで、凌さん。今日の成果は?

と言って、コーヒーをひと口飲むと、タバコをくわえた。私のコーヒーには陰毛が浮いているので、新しいものを買ってこようかと逡巡していたが、私はケチであり、貯金残高も減ってきたので我慢して、


なーんもないよ。あいかわらず、クソ求人ばっかりだね。二時間半くらいずっと血眼になって、求人情報検索機で探していたけど、よさそうな仕事なんて皆無。というか、結局、過去に見たことがある同じ求人がぐるぐると回っているだけなんだよね。
条件のよい仕事はみんな辞めないから、条件のよくないみんながすぐに辞める仕事しか回ってこない。
で、たまに見たことない新規のよさそうな仕事を見つけて受けると、採用一名の枠に対して、尋常じゃない人数が応募してくる。そういうのは、ほとんどが書類選考の段階で落とされてさようならー。

私がそう言うと、さっきから高速の貧乏ゆすりをやめない修二が、ううーん、と考えこんだ後、大きなあくびをするのでまだ寝足りないのかと思っていると急に、天竺で悟りを開いたみたいな顔をして、


「…というか、正直、俺、やりたい仕事なんてありませんよ。でも、生きていくためには何かしらの仕事をしていかなければならないわけで。でも、俺は何の仕事をしたらよいのかがいまだにわからない。そのわからない状態でこうやって仕事を探しているのだから、もうワケがわかりません。自分でもどうしたらよいのかが見当もつかない。人生の流れ、が全く掴めない。あと、俺もだし、凌さんもですけど、基本的に運がないんですよね。仕事もそうだし、恋愛や私生活でもそうですけど、なぜだかうまくいきそうでうまくいかない。努力が足りないと言われればそれまでですけど、なーんか腑に落ちないんだよな。あ、ほら、俺なんて、フリーター生活を辞めて正社員で会社に就職した途端に同棲していた彼女にふられて一人暮らしを始めたら、その五日後に上の階の住人の男が焼身自殺未遂して部屋が水びたしになったでしょ。そして、他のアパートに引っ越したら、今度は肺気胸になって入院したし。人間の運ってのは不平等ですよねー。けったくそが悪い」

「ああ、そうそう。あのときは大変だったね。俺、修二君のお見舞いに病院へ行ったら、病室のベッドで岡本太郎の太陽の塔のフィギュアを握りしめて、死んだようにぐったりして寝てるんだもん。だから声をかけずに、お見舞いのシャインマスカットを枕元に置いて帰ったからね。可哀想で見ていられなかったよ。この世に神様はいないんだなと思ったね」

「ですよねー。割と順風満帆に人生が進みやすい人間とそうでない人間の差とは一体何なのでしょう。俺たちは、ここでこうして、通算何百杯のコーヒーを飲んで、何百時間すごしたかわかりません。今は店内がリニューアルしてオシャレな感じになっていますけど、俺らは前の地味な店内の状態からここにいますからね。時の流れと共に変わるのは、周りの客たちと店員だけで、俺たちだけは何にも変わらずにこの喫煙席で、こうしてうだうだと駄弁を弄して人生の時間を空費しているだけですから……」

そう言うと、修二はふたたび、ううーん、と考えこみながら、私の頭上にむけて白い煙をくゆらせた。
そして、孫の顔もわからなくなったボケた老人のようなスローリーな動きで周りを静かに見渡すと、

俺らも立派な屑人間だけど、昼間にここにいる連中は一体、何をしているんでしょうか?みんな、スマホやノートパソコンばっかり見てるけど、何、見てんの?って尋ねたくなりますね。どうせ、こいつらも俺らとあまり変わらない屑人間なんでしょう。あるいは、屑人間予備軍。あ、ほら。凌さん。あそこにいる会社の歯車どもを見てあげてください。

修二は声をひそめてそう言うと、私に目配せして合図した。少し離れた左手のテーブルにはポール・スミスのスーツを着たサラリーマン風の男二人組がいる。ひとりは区役所の窓口にいそうなのっぺり顔の男、もうひとりは柴犬のケツの穴みたいな輪郭の赤紫の顔の男だった。日焼けしており、肌が小汚い。おそらく、彼らは私たちと同世代か少し年下だ。

「今週は取引先の社長に会いに行かなければならなくてさー。で、来週は東京本社で会議だって。まいったよー。あー、俺は俺のからだが二つ欲しいわ」
「その感じわかるぅ。うちの部署、俺以外、つかえない愚図ばかりでさ、困っちゃうんだよね。まあ、俺がいないと仕事が回らないっていう感じ?あ、ちょっと待ってね。無能な上司から電話がかかってきたわ。ちょっとだけ、席を外すー。わりー」

などと言い、区役所の窓口はうすら笑いを浮かべながら席を立ち上がると急にビジネス口調になり、スマホで話しながら、店内奥にある壁際でひそひそ話をしていた。その間、柴犬のケツの穴は、クールな顔でスマホを眺めていた。私は冷水をもらいに行くふりをして、柴犬のケツの穴の背後を通ると、彼はソープランドのサイトを見ていた。口元にぼかしが入った女性が尻を突き出したり、大きな胸の谷間を見せつけて、あられもないポーズを取っている。

けっけっけ。化けの皮が剥がれたな。スケベ野郎。
気取った顔してタバコを吹かしているが、オマエはただのカッコつけのイキリ野郎だ。こういう男は地方の田舎の学校で小さくなっていた奴で、都会に出てきて自分の手で金が得られるようになると、自分の才能や能力を過信して、勘違いの調子こきになるタイプだ。まあ、せいぜいがんばりたまえ、世上。

などと無職である自分のことは棚に上げて、彼らを非難する愚劣な私は、サグラダ・ファミリアのような形にきれいに積み重ねてある紙コップを一個拝借し、冷水を注いで自分の席に戻った。水の冷たさが体の隅々まで深く沁み渡る。私は深呼吸をした。
目の前の修二はタバコばかり吸っており、「俺たちはあと何十年くらい生きなければならないんですかね?毎日のこれって意味があんのかな?」などと言うと、虚ろな目でコーヒーをがぶりと飲んだ。

すると、テーブルの上の私のコーヒーカップがカタカタと震え出した。ソーサーの上でカップが小躍りするように動いている。そして、コーヒーが渦を巻くと、その中を黒光りした陰毛が泳いでいた。


スマホの緊急地震速報アラームが鳴り始める。
耳障りな音だった。次の瞬間、店内が烈しく上下に動き、それは右回りに円を描くように揺れるのだ。店内は騒然となり、周りの客たちは悲鳴を上げたり、テーブルの下に隠れた。大地が暴れている。まさにそんな感覚だった。思いのほか揺れは大きく、長く、深かった。店内の厨房や食器返却口に溜まったグラスや食器が割れる音、壁に飾ってある額縁の絵や写真が次々と落下する音、イスが倒れる音などが店内で飛び交った。やがて、揺れが小さくなり、一旦おさまると、店内はめちゃくちゃに破壊されていた。一分前とは別の空間になっている。私たちの頭上では、天井から吊されてある筒型のライトがいつまでもキコキコと音を出して揺れ動いており、突然のことに狼狽する周りの客たちは途方に暮れていた。やがて、女性店員の呼びかけで、客たちがぞろぞろと外へ出ていったが、私と修二はその場から動かずにその状況を冷静に傍観していた。


地震の恐怖で体が硬直しているわけではなかった。
その逆で、地震に対して、思いのほか、恬然としている私たちがいたのだ。修二は、雄峰を眺望するような遠い目をして泰然とタバコを吸っており、


凌さん。大きいのがきましたね。これは大変なことになりました。ついに世界の終わりがやってきたのでしょうか。でも、なんだろう。このあまり驚かない感じ。自分でも意外でした。心が麻痺しているのかな?壊れているのかな?よくわからないな……

と言って、先週、千円カット専門店で散髪したという髪を掻き乱した。白目が赤黄色に汚れている。
そのとき、青ざめた顔をした店長と思しき四十くらいの女性店員が私たちの席に駆け寄ってきて、
「ほら、学生さんたちも早く外に出て!ここにいたらあぶないじゃない。タバコなんていいから!」
と言って、私たちをにらみつけた。店内には店員以外には私たちしか残っていない。それでも修二は、「このタバコだけ吸ったら出ますんで…」と覇気のない声で言うと、女性店員は、「あなたたちにここにいられると迷惑なの!」と金切り声を上げて、レジカウンターへ戻っていった。顔にそばかすのある女性だった。左耳にピアスをしているのが見えた。


私はテーブルの上のコーヒーカップを見た。さっきよりも烈しく渦を巻いたコーヒーの中で、陰毛が活魚のように踊り狂っている。私は目をぱちぱちさせながらそれをぼんやりと見て、俺たちはこれからどこに向かって生きればいいのだろうか、と思った。そのとき、余震がやってきた。コーヒーカップがカタカタと震える。コーヒーの渦の中で陰毛が回る。いつまでもくるくると回る。修二は、俺たちは学生じゃねーよ、と言って、苦虫を噛みつぶしたような表情でタバコを灰皿で揉み消した。私は、この世は生ぬるい地獄だな、と思った。店内がまた揺れた。



          〜了〜




愚かな駄文を最後まで読んでいただき、
ありがとうございます。
大変感謝申し上げます。

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