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黃芝雨(ファン・ジウ)「痛恨の後悔」
哀しい
私が愛したあとごとに
尽く廃墟である
完全に壊れきりながら
完全に壊しきっておいて去ってゆくこと;その証なしでは
まことに愛したというわけには参るまいか
私に来た人びと、
どこか幾処は壊されたまま
みな去っていった
私の胸中にはいつもぼんやりと移動する砂漠の神殿
風柱の建てた内室へまでも砂が押しかけており
根ごと無造作に転んでいる木くず、そして
枯れてゆく死んだ獣の耳元に砂の音がカ
イ・ユリ「絳(あか)キ実」
凡例
・本文中におけるすべての表記揺れなどは、意図されたものである。
・注はすべて訳者によるものである。
親父は自分を火葬したら、残ったその遺骨を植木鉢にしてほしいと言っていた。それはてんで話にならない戯言だった。ところが親父は、そんなとんでもないことをしょっちゅう平気で言い出すようなタイプの人間だったから、つられたわたしも油断して、もののまぎれにその場ではつい、うんわかったと答えてしまった
シン・ヒョンチョル「無情な神と愛の発明」(『人生の歴史』より)
ある価値あるいは制度の再発明を要請する人は革命的である。既存のものは偽りと、本物は別にあるというからである。ところで私は再発明ではなく発明について考えてみようと思う。もうこれ以上壊すものも崩すものも、なにもないところから何かを初めて創り上げる人の、その恐ろしくて勇ましい心について、である。(・・・)
「私でも側にいなければ」(・・・)ふとそのような独り言を発しては、自ら驚いてしまったかもしれない
シン・ヒョンチョル「ひらめの十全さについてー愛の論理学のための補足」(『悲しみについて勉強するという悲しみ』より)
誰しもが欠如を持っている。恥ずかしさゆえに大概はそれを隠す。他の人々もしかりであろう。ところで或る決定的瞬間に、私があの人の欠如を見つけ出す時がある。そしてその時、このようなことが起こりうる。あの人の欠如が醜くて背を向けるのではなく、むしろその欠如のためにあの人を見直すこと。その発見に伴い、私の欠如が、消し去りたい或るものではなく、むしろあの人の欠如と分かち合うべきあるものと化する。私でなければあ
もっとみる栗原康『村に火をつけ、白痴になれー伊藤野枝伝』より
(…)野枝の人生の軌跡をおっていくが、あらかじめその特徴をひとことでまとめておくとこうである。わがまま。学ぶことに、食べることに、恋に、性に、生きることすべてに、わがままであった。そして、それがもろに結婚制度とぶつかることになる。(…)
もしかしたら、これを真実の愛をもとめた結果だというひともいるかもしれないが、そんなきれいなものではなかった。わがままだったのである。だいたい真実の愛がどうこう
谷川俊太郎「九月のうた」
あなたに伝えることができるのなら
それは悲しみではありはしない
鶏頭が風にゆれるのを
黙ってみている
あなたの横で泣けるのなら
それは悲しみではありはしない
あの波音はくり返す波音は
私の心の老いてゆく音
悲しみはいつも私にとって
見知らぬ感情なのだ
あなたのせいではない
私のせいでもない
野家啓一『物語の哲学』より
(…)後半の注においては、その時間的順序を逆転させ、「語る」あるいは「書く」という人間的行為によってはじめて実在的歴史が成立することを述べている。その語るという行為を「物語行為(narrative act)」と呼べば、実際に生起した出来事は物語行為を通じて人間的時間の中に組み込まれることによって、歴史的出来事としての意味をもちうるのである。ここでコジェーヴが述べているのは、「歴史」は人間の記憶に依
もっとみるキム・ヨンミン『人間として生きることは一つの問題であります―政治的動物への途』翻訳 #4「自然状態を想像せよ―政治已前の状態」
とうとう私のまわりにも田舎暮らしのよさを喝破する人があらわれはじめた。油断大敵とはよくいったもので、退屈な故郷がいやで一生都会暮らしを讃えた友人さえも、田園に一戸建ての住宅を買い取り、家庭菜園をはじめたそうだ。自分の耕す小さな畑がどれだけ誇らしいものか、化学肥料を排除したその野菜が、大きさでは劣るものの味やら新鮮度やらでいかに優れているか讃嘆する。あのレタスを食べたら、まるで自然が俺にハイタッチを
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